「新しいミサ式次第の批判研究」とは何か
1969年4月4日教皇パウロ6世は公式に新しいミサ司式を発布した。アルフレード・オッタヴィアーニ枢機卿(1)は以前、聖庁長官として3人の教皇のもとで異端を根こそぎにし、カトリック信仰の純粋さを守る重い任務を担っていた。この聖庁の教皇の次の最高責任者は新しいミサについてこう言った。「新しいミサがトレント公会議に反するものであるという主張は強すぎると思われるかもしれないが、しかし大変残念なことにそれは本当だ。」そして、1969年6月5日に完成した「新しいミサの批判研究」を承認しこれを9月25日付でパウロ6世に提出した。
ではこの最も傑出した枢機卿が言うカトリック教会の公会議の一つであるトレント公会議に反するミサとは、どういうことだろうか。
当時聖庁の長官を引退したオッタヴィアーニ枢機卿はある2人のローマの貴族出身の婦人と親しかった。この婦人の名はVittoria Cristina GuerriniとAemilia Pediconiと言った。さてこの婦人達は2人ともバチカンやその他の聖職者のサークルと広いつながりがあった。この2人の婦人達は自分のその幅広いつながりを通して保守的な神学者や典礼学者、司牧者達に呼びかけ小さなグループを創ったのだが、後に彼らは新しいミサの内容の研究をする事になった。オッタヴィアーニ枢機卿はその研究内容に目を通しそれをパウロ6世に提出することに同意した。
このグループの神学者達は1969年の4月から5月にかけて会合を重ねた。その内容を最後に文章にまとめるのは当時ローマの教皇庁立ラテラン大学の教授であったドミニコ会神父のゲラール・デ・ロリエ(Rev Pere M. L. Guerard des Lauriers)神父だった。フランス語で書かれた自分の会合ノートをもとにゲラール神父はゲリーニ(Guerrini)婦人に内容を写し取らせた。ゲリーニ婦人はそれをイタリア語に同時通訳しつつ書き取った。こうしてできたのがBreve Esame Critico del Novus Ordo Missaeである(2)。
その当時聖霊修道会の総長職を辞任されたマルセル・ルフェーブル大司教はゲラール神父にこれをフランス語に訳すように頼んだ。
オッタヴィアーニ枢機卿はこの「批判研究」の結論を支持する導入の手紙をパウロ6世宛に書いた。またこの「批判研究」を共同製作した人たちはオッタヴィアーニ枢機卿の他にもさらに多くの高位聖職者達のサインを取り付けようとした。ルフェーブル大司教は、600人はめぼしい司教がいたと言った。もし最初の計画通りこれらの600人の司教達がこれにサインしていたらこの「批判研究」はパウロ6世を思い直させて新しいミサを実質的に変えていたか、それを廃止させていただろう。
1969年の5月から9月にかけて「批判研究」者側は12人の枢機卿らの署名を既に取り付けていた。その中には典礼聖省の元長官アルカディオ・ララオーナ枢機卿(Arcadio Cardinal Larraona)さえもいた。オッタヴィアーニ枢機卿自身も自分で「批判研究」を数日間かけて慎重に吟味しパウロ6世への導入の手紙に9月13日にサインした。
しかし大変残念なことには、本当は枢機卿達の共同署名をもって教皇パウロ6世に提出した後1ヶ月後にようやくこの「批判研究」を公にすることになっていたのだが、あるフランス人司祭が一人でこれを発表してしまい、もとの計画を台無しにしてしまった。なぜならこのために臆病な人たちが以前は自分の名前をこの研究にサインしていたがそれを取りやめるようにと言い始めたからだ。
しかし、その中でもアントニオ・バッチ枢機卿(Antonio Cardinal Bacci)は別だった。彼は昔から有名なラテン語学者で修道者聖省、列聖調査聖省、カトリック教育聖省などバチカンで長年働いておられた。この研究に先立つこと1967年にはティト・カジーニの『引き裂かれたトゥニカ』(La Tunica Stracciata, Tito Casini, Roma: 1967)の序文に、典礼改革はトレント公会議の信仰を裏切ったと非難し、当時の典礼憲章実行委員(Consilium)委員長であったレルカーロ枢機卿(Cardinal Lercaro)のことを「よみがえったルター」と言い切った。もちろんこのようなものをはっきり言うことのできる枢機卿は少しぐらいのことではびくびくしなかった。残念なことにはそのような枢機卿が余りにも少なかったことだ。バッチ枢機卿は9月28日にサインした。翌日この手紙と「批判研究」とはパウロ6世に提出された。
批判の内容
この新しいミサの批判の中心部分は、新しいミサが教義上の危険な誤謬が多くあり、トレント公会議によって荘厳に定義されたミサに関するカトリックの教えに対する攻撃となっている、ということである。「批判研究」を作った人たちの意向は新しいミサの提示する問題を一つ残らず取り上げるというものではなく、むしろ、カトリックの教義と実践から新しいミサが逸脱している最も典型的なところを指摘することであった。
批判研究が取り扱った対象は2つあり、1つは新しいミサそれ自身、2つめは1969年の341段落からなる新しいミサに関する総則である。
カトリック信仰から新しいミサが離れてしまっているもののうち特に次の点を列挙しよう。
ミサが「天主に捧げられるいけにえ」であるとする代わりに、むしろ「集会」とした新しいミサの定義。
「ミサが罪を償う」という(プロテスタントが完全に拒否する)カトリックの教えを確認する要素を全て省略していること。
司祭の役目をプロテスタントの牧師と同等の位置に還元させてしまっていること。キリストの御聖体における現存と全実態変化という教えを暗に否定していること。
聖変化を秘蹟を執行するという行為から最後の晩餐の歴史をもう一度叙述するだけに変えてしまっていること。
数えきらないほどの自由選択を許すことによって教会の信仰の一致を砕いてしまっていること。
新しい典礼様式の最初から最後まである曖昧な言い回しやいろいろな意味にとれる表現のために教会の教義が堅持されていないこと。
バチカンの反応
パウロ6世は1968年に総則の原稿を受け取り(3)新しいミサの詳細にわたって個人的に承認したのだが、オッタヴィアーニ枢機卿の研究を受け取るとそれを1969年10月22日信仰の教義聖省に送り、この研究の内容を調べるようにと頼んだ。
1969年11月12日、教義聖省は政務次官にその返答をした。典礼憲章実行委員(Consilium)の秘書であったモンシニョール・アンニバーレ・ブニーニ(Mgr. Annibale Bugnini)は、その「思い出」の中で(オッタヴィアーニ枢機卿が厳しく批判した)総則は教会の教えから逸脱していないと言った。ところで、彼の著作ほとんど千ページにも亘るもので新しい司式が正統的なものであることを弁護するためにはどれほど長い引用文でも引用している。ところが、教義聖省のした「批判研究」に関する吟味結果の手紙についてはその手紙から1文章しか引用していない。もしこの手紙の内容がオッタヴィアーニ枢機卿の研究が全て根も葉もないことであるという内容であったら、ブニーニ司教は鬼の首を取ったようにそれを全文掲げていたであろう。
さて1969年11月上旬、典礼憲章実行委員会のメンバーはローマで会合を開いた。彼らはこう記録している。「ローマ・ミサ典書の総則のいくつかの点に関して、特にその第7項(ミサの新しい定義に関する条項である)に関して困難な問題が持ち上がった。」当時ある報道機関は新しい司式のことを「異端的なミサ」として言及しだしたのであった。
1969年11月18日、コンシリウムは硬直した態度で総則を「明確化する」と宣言した。オッタヴィアーニ枢機卿の研究による新しいミサの教義上の批判を、コンシリウムは総則は「教義上」の声明ではなく単なる「司牧上のあるいは司式上の」指示であるとかわそうとした。新しいミサを弁明しようとする人は後にこの同じことを善意で繰り返し言うことだろう。彼らはつまり、教義上の声明をするためでない「司牧上のあるいは司式上の」文章ならば、教義上どんなに逸脱しても良い、と言うのだ。これは賢い戦術であった。
しかし、総則に関して、コンシリウムの中にあった新しいミサを作り上げるための直接任命を受けた分科会の委員達は以前別のことを話していた。この委員であったブニーニ神父とピーター・カラン神父は、既に総則は「神学原理(4)」を取り扱い、新しいミサを「神学的に詳細まで説明し(5)」また新しい司式を「教義の上から(6)」叙述し、「教義的特徴を持った導入(7)」として役立つようにすると言っていた。
1969年の総則は新しいミサの背後にひそむ神学上・教義上の原理を提示するものとして明らかに目まれていたのである。1969年11月18日のコンシリウムの宣言は嘘とほとんど変わらなかった。
1969年11月19日、パウロ6世は一般会見にてその長々しい演説で新しいミサが異端ではないかという虞を鎮めようと必死になっていた。パウロ6世は新しいミサをかばうために非現実的なことを話していた。ミサの実質は変わっていない、古いミサが教会の聖伝の教えを過つことなく肯定してきたように新しいミサもそうだ・・・しかしパウロ6世はこのような一般的な話に止まり新しいミサから取った具体的な例証は1つも挙げ得なかった。
パウロ6世は新しい司式は「不確実さに終わりを告げさせた」そして「カトリック教会に固有の態度と典礼様式との統一性を私たちに与えた」とも述べた。しかし総則にざっと目を通すだけでも分かるように、あるいは日曜日に別の教会に行って見ればわかるとおりに、パウロ6世の発布したそのミサは数知れない選択とその場での適応の余地をゆるし、「態度と典礼様式の統一性」からは遥かにかけ離れている。
さて、オッタヴィアーニ枢機卿はパウロ6世に出した手紙の返事をついにもらうことがなかった(8)。オッタヴィアーニ枢機卿は目の病気で定期的に目が見えなくなるのだったがその年の11月の終わりに目の発作で病院に入院している。パウロ6世はその年の12月7日にこの年老いた枢機卿と会見するが、枢機卿はそのときのことをこう日記に書いている。「最初は私とバッチ枢機卿の新しいミサに関する手紙のことで少し荒々しかった」(9)と。
この会見以来オッタヴィアーニ枢機卿は新しいミサに関する自分の立場を公の場では何も話そうとせず、いきなり沈黙を守るようになってしまった。1970年1月8日の日記にはこう書いてある。「ドイツでは私がした新しいミサに関する宣言についての話がいろいろあった。沈黙・・・」オッタヴィアーニ枢機卿の日記をもとに本を書いたエミリオ・カヴァテラはこの記事について「枢機卿はほとんど自分の口に封印がしるされているということの仕草をしていると誰にでも殆ど見てとれるようだ(10)」と言っている。
私たちはオッタヴィアーニ枢機卿のこの苦悩を忘れてはならない。
1970年2月にドン・ジェラール・ラフォンと言う修道司祭が新しいミサ司式の教義上の覚え書き(Dom Gerard Lafond, Note Doctrinale sur le nouvel Ordo Missae)と言う本を出版した。その中で彼はオッタヴィアーニ枢機卿自身が新しいミサの一部を作ったこと、またその部分はちょうど「批判研究」が攻撃したまさにそのところであること、枢機卿は「批判研究」を認可しなかったこと、その内容が枢機卿によって差し控えられたらしいことなどをも主張していた。しかしこれらの言いがかりについて著者はいかなる証拠も出していなかった。
さて、その翌月ドン・ラフォンはオッタヴィアーニ枢機卿が1970年2月17日に彼に宛てて書いたということになっている手紙のコピーを公表した。この手紙の中で枢機卿は次のことを書いたことになっている。
枢機卿がドン・ラフォンの「覚え書き」を調べたこと、
枢機卿はドンラフォンの書いた内容を承認するばかりでなくその素晴らしさを賞賛すること、
枢機卿は自分のパウロ6世宛への手紙を公表することを許可しなかったこと、
枢機卿が持っていた新しい司式に関する躊躇はパウロ6世が11月19日と26日にした演説によってなくなってしまったこと、である。
しかしこのような手紙をオッタヴィアーニ枢機卿が書いたとは奇妙である。なぜなら、何故枢機卿がドン・ラフォンの「覚え書き」を承認しなければならなかったのであろうかが奇妙である。この「覚え書き」とは結局、枢機卿を根拠もなく中傷することになる言明を含んでいるからである。
また、この手紙によると枢機卿の「批判研究」がその承認なしに出版されたことになっているが、それもおかしい。なぜなら枢機卿は1969年10月にある人に、また1970年2月17日(ドン・ラフォンに宛てて書かれたということになっている手紙と全く同じ日付だ!)にはさらに別な人に個人的に「批判研究」を出版しても良いという許可を出しているからだ。
さらに、オッタヴィアーニの日記を研究したエミリオ・カヴァテラはその本の中で2月17日の手紙について何も触れていない。カヴァテラは枢機卿が新しいミサについて躊躇していたことはないと説明しようと努めていたのであるから、もしも枢機卿が本当にこの手紙を書いていたら、その手紙を引用することによって枢機卿の心配がなくなってしまったことを見せる絶好の機会となっていたことだろう。カヴァテラのこの手紙に関する沈黙はオッタヴィアーニ枢機卿が本当はそのような手紙を書いていなかったと見る方が正しいと語っているようだ。
カヴァテラはオッタヴィアーニ枢機卿の秘書であったモンシニョール・ジルベルト・アグストーニ(Msgr. Gilberto Agustoni)との会見を引用している。モンシニョール・アグストーニもまたオッタヴィアーニ枢機卿を「批判研究」から遠ざけようと試みた人である。しかし彼もこのオッタヴィアーニ枢機卿が書いたとされている手紙について何も語っていない。もし本当に枢機卿が書いていたのなら、モンシニョール・アグストーニは喜んでそれを引用し、枢機卿はいつも典礼改革に対して「肯定的な態度」で臨んでいたと言ったことだろう。
この手紙にはこのモンシニョール・アグストーニの問題もある。彼はドン・ラフォンの「覚え書き」にサインしていた。もしオッタヴィアーニ枢機卿もこの本を承認しさえすればモンシニョール・アグストーニにも利益があった。この当時オッタヴィアーニ枢機卿は失明中であったのでモンシニョール・アグストーニがうまくごまかして枢機卿にこの2月17日の手紙にサインをさせることなど赤子の手をひねるごとくいともたやすかっただろう。
最初にこの手紙のコピーが出たときには聖伝支持者達は大きな衝撃を受けた。しかし後にアグストーニ自身に関する様々のことが分かってきた。
モンシニョール・アグストーニは典礼憲章実行委員会のメンバーの一人だった。彼はベンノ・グート枢機卿(Benno Cardinal Gut)、モンシニョール・パール・フィリップ(Mgr. Paul Philippe)、モンシニョール・アンイバーレ・ブニーニ(Mgr. Annibale Bugnini)らと共に新しいミサの「奉献文」の最終推敲文を承認した責任者であった(11)。まさに「批判研究」がカトリックの教えを蝕むものであると告発しているその文章である。
モンシニョール・アグストーニはその同時、典礼聖省に勤務しており、典礼改革を推進させるバチカンの責任者であった。オッタヴィアーニ枢機卿が「批判研究」の内容を承認しこれを支持するパウロ6世宛の手紙に署名したのが1969年9月13日であったが、モンシニョール・アグストーニはその前日、つまり1969年9月12日に既にこの典礼改革推進責任者に任命されていた(12)。
コンシリウムの中には新しいミサを作り上げるための直接責任を持つグループがあった。それが「研究グループ10」と呼ばれそこには12人のメンバーがいた。さて、その12人のうちの一人はルイジ・アグストーニ神父(Don Luigi Agustoni)(13)といい、他でもないモンシニョール・ジルベルト・アグストーニの兄弟だった。
最後の決め手はこれである。既に1966年コンシリウムのメンバーのうち3人がパウロ6世に新しいミサの司式を提案する長い詳細にわたる覚え書きを送っていた。このミサの内容は1969年に発布されたものとほぼ全く等しいものだった。このとき提案された新しいミサ司式には「批判研究」が1969年に告発することになる全ての要素が既に揃っていた。実はこの覚え書きを準備したその3人とは、モンシニョール・ブニーニ(Mgr. Annibale Bugnini)、モンシニョール・アントン・ヘンギ(Mgr. Anton Hanggi)、そしてモンシニョール・ジルベルト・アグストーニだった(14)。
モンシニョール・アグストーニはオッタヴィアーニ枢機卿を「批判研究」から引き離せば引き離すほどそれだけ利益があったのだ。これらのことをを照らし合わせてみると、盲目の枢機卿がその秘書によって内容を良く知らされないままサインするように仕向けられたということは想像に難くない。バチカンの中には全くおかしなことが起こったものである!
さて、フランスの月刊誌であるItineraire誌の編集長であるジャン・マディラン(Jean Madiran)が公にモンシニョール・アグストーニを枢機卿のサインをだまし取った件で訴えた。そのすぐ後、モンシニョール・アグストーニはオッタヴィアーニ枢機卿の秘書の地位を放棄した。
オッタヴィアーニ枢機卿のこの1970年2月17日の手紙について以上の事実からいかなる結論を引き出そうとも私たちにとって次の2点は確実である。1)バッチ枢機卿もパウロ6世への手紙にサインをしたが彼はその立場を取り消したり変更したりしなかった。2)バチカン自身はこの2月17日の手紙については何も知らなかった。しかもバチカンはこの「批判研究」を重大に考えた。バチカンはこれに対して別の返答をするだろう。
パウロ6世が1969年4月新しいミサ司式を発布したとき、日曜日や祝日に固有の祈祷文などその日によって変わる部分についてはまだ完成してはいなかった。パウロ6生の使徒憲章は新しいミサ典書が有効になる日を1969年の11月30日待降節の第1主日からと定めた。
しかし、オッタヴィアーニ枢機卿のこの勇気ある介入のために新しいミサに対する疑惑と議論がたち起こった。バチカンはこの反対運動が静まるまで新しいミサ典書の出版は延期せざるを得なくなった。典礼学者であるアレッサンドロ・ピストイアは「新しいミサ司式の神学的根拠に関してぎわくの雰囲気を醸し出させた」反対意見であった、と言っている。カトリック信者は新しいミサを受け入れなかった。新しいミサについての長々しい説明を何度も繰り返さねばならなかった。さもなければこの反対運動は決してなくならなかっただろう。
典礼聖省はついにパウロ6世に新しいミサの正当性と合法性を弁護するための自発教令を書いてくれるようにと頼んだ。パウロ6世はしかし新しいミサ典書に説明の前書き(Proemium)を付け加えるのはどうかと提案し、彼は1970年2月14日にブニーニ神父と会い前書きが付け加えら得られることが決められた。そしてこの前書きは新しいミサ典書が聖伝に一致していること、そしれ新しいミサの教えが古いミサの教えと全く同一であることを表示することが決められた。
「はかない公文書」
新しいミサ典書はようやく1970年3月に現れた。そのミサ典書には、総則に8ページの前書きが付けられた。典礼学者達はこれを「新しいミサの司式の教義上の正当性を保証するもの」とその内容は殆ど「トレント的」であるはずだった。 しかし、この前書きを書いた人は不可能な仕事を果たすように要求されていた。聖伝に基づく神学とは全く別な原理を念頭に構築された典礼様式の上に伝統的な神学を重ね合わせるということをしなければならなかったからだ。前書きが言う教えと新しい典礼様式の要素とは全く矛盾している。例を挙げてみよう。
前書きは新しいミサはミサのいけにえの性格に関するトレント公会議の教えを「常に」表明している、と言う。
このことを証明するために前書きが例挙できたのは新しい典礼様式のうちたった2つの文章だけであった。1つは「奉献文3」の中にある一つの祈り、もう一つは「奉献文4」の中の一つの祈り、である。しかし、この2つだけではトレント公会議の教えが「常に」表示されているとは到底に言い難い。さらに言いかえると、「奉献文2」を使った場合、新しいミサはミサのいけにえであるという性格をただの1度も表明しないことになる、と言うことを意味している。これ湖をオッタヴィアーニ枢機卿の研究が指摘したことである。
前書きは「聖体祭儀が実施される際の崇敬の精神と表現」によって新しいミサは主の御聖体における現存と全実体変化の信仰を表現する、と言っている。これは本当に為になる考え方である。
しかし、昔の典礼様式にあれほど多くあった御聖体への崇敬の印、外的しぐさ、それらは殆ど新しいミサではなくなってしまっているという事実をどう見るのか。「批判研究」が指摘するように3回の例外を除いて主の現存のために片膝をつくという礼拝は全てなくなってしまった。我らの主が日夜現存し給う御聖体を安置する聖櫃は教会の隅の目立たないところに、個人的信心の為だけに存在するこのごとく追いやられてしまった。御聖体拝領の時にひざまずくことは廃止された。そしてその他の多くの主の現存を信じているということを表す外的印、態度はなくなってしまった。
オッタヴィアーニ枢機卿が指摘した「新しいミサは司祭職に関するカトリックの教えに矛盾している」と言うことを否定するために、前書きは「聖香油のミサ」の新しい序唱について言及している。
しかし、この聖香油のミサは1年にたった1年かも教区司教のみが捧げるものである。しかもこの新しい序唱を良く吟味してみると、叙階された司祭の司祭職は「信者の司祭職」から起因するものであるという全くプロテスタントの司祭職観を強く印象づけられる。まさに、この序唱は司祭職に関する聖伝に基づく理解を再確認するものとは遥かにかけ離れている。
この「前書き」には素晴らしい考えや聖伝に基づくことがうまく言い表されて言うが、しかしそれは全く言葉だけで、新しい司式の現実を見るとそのうまい言葉はあっと吹き飛ばされてしまう。
英国の典礼学者クリクトン神父は典礼改革の熱心な推進者であるが、この前書きが何であったのかを良くまとめてこう言っている。「新しい司式に対する批判を論破するために書かれた議論の余地のある声明であるが、その性質上、非常に儚い文章である(15)」と。
1970年の新しいミサ典書で変更されたのはこの「前書き」が付け加えられただけではなかった。さらに「総則」も改訂されていた。コンシリウムは最初に出た総則にはおかしなところなど何もないと主張し、これを撤回しようとしなかったのでこの改訂を導入するには少し言葉の綾を使った。その文章が”Presentation”と呼ばれるものである。
チェカダ神父はこの文章が余りにもくねくね曲がりくねっているのでジョージ・オーウェルの小説「1984」の「真理庁」から出された文章であるかのようだと言っている。
この文章の言おうとすることは次の通りである。
1)総則の全ての内容を記憶するのは難しいためにその中にはあまりはっきりしなかった点があった。2)新しい司式に対する不満は「何か新しいものに対する偏見に基づいている。そのためこれらの批判は根拠がなく考察するに値しない。」3)コンシリウムも総則を調べてみたが、「その内容を整え変える理由も、教義上の誤りも何一つ見つからなかった」。4)しかしながら、「困難な事態に対処するため」「総則を少し補い、あるいは書き換えること」が取り決められた。5)最後に「これらの訂正は事実ほとんどない。」
1969年の初版と1970年の改訂版とは”Varietationes Praecipuae in Instituionem Inductae,” Ephemerides Liturgicae 84 (1970), p233-40.に並べて載せられている。これを見ると、改訂を受けたのがオッタヴィアーニ枢機卿の研究が一番強く非難したところであることが分かる。クリクトン神父は辛辣にこの改訂について公庫面とを着けている。「この改訂の手順は誰の目にも明らかだ。言い回しや表現が非難を受けるとそのすぐ横に「トレント的」とでも言うような文章を付けただけだ。」
このようなテクニックの例を少し挙げてみよう。
「批判研究」がミサが「集会」であるという新しい定義を批判したとき、コンシリウムはこの文章は「定義」ではなく、単なるミサの「描写」に過ぎないと答弁した。「主の晩さん、またはミサ」という言い回しも改訂版では「ミサ、または主の晩さん」と順序を逆にした。また、最初で多ミサの新しい定義ではミサが単なる記念であるといわれたが、改訂版では「または感謝のいけにえ」という言葉が加えられた。
オッタヴィアーニ枢機卿が新しいミサのもとの総則には全実体変化に関する言及が全くないことを受け、改訂版ではキリストが「聖体の要素のもとに実体的に継続的に」現存すると語っている。しかしながらこれと同時に総則では、集会や聖書、また役者においてキリストが「現存する」という別の現存をも付け加えられている。これらはキリストの実体的現存と同価値を持って現れるため付け加えられた。プロテスタントが嫌悪する「全実体変化」というカトリック用語は未だに使われていない。
司祭の役割は「集会の座長」へとおとしめられていることをオッタヴィアーニ枢機卿は指摘した。改訂版では司祭が「キリストのペルソナにおいて」行為するという観念が復活した(60番)。しかし、総則のあちこちにある「会衆がミサを捧げ、ミサを執行する」という誤った観念はそのまま残っている。また別のいろいろな文章ではまだ司祭は「座長」として取り扱われている。
これはほんの例だが、改訂版は妥協の産物であって純粋にカトリック的とは言い難い。
しかしながら、この一握りの聖伝的な表現が付け加えられたため多くの人々は安心してしまった。もちろん、この改訂版は原初の総則の持つ欠陥を治したことにはなっていないと主張するものもあった。
この総則の改定から5年後にコンシリウムのメンバーの一人であったエミール・ヨーゼフ・レンゲリング師はこう書いている。「1969年の総則の原版には、宗教統一へと向けられたミサ司式のための秘蹟神学が現れた。・・・反動的な攻撃の為に改訂せざるを得なかった1970年の新版は、改訂者の賢明さのおかげで最悪を免れることができたのだが、この改訂版にもかかわらず、犠牲に関するトレント公会議後の理論の袋小路から私たちを救い出し、最近結ばれた他の宗教を信じる人々との同意文章に適応するようになった(16)。」
1970年3月に出た新しいミサ典書の中にあった「前書き」も、新しい総則も日本におけるカトリック教会では全く知られていない。少なくともこれを訳そうという努力は払われなかった。日本人は「優等生」であったのでバチカンの陰で何が働いているかも知らされないまま、何の疑いもなく新しいミサを受け入れたので1970年の前書きを訳したり、1970年の新しい改良された総則を日本に導入する手間が要らなかった。しかし、一度新しいミサが受け入れられれば、その手間が要らない性質のものであった。なぜなら1970年のこの「改訂」もただ新しいミサを飲み込ませるだけのものでしかなかったからだ。
オッタヴィアーニ枢機卿の介入はローマをして新しいミサ典書に前書きを付けさせさらに総則を改定させた。ではそれ以外にローマは「ミサ司式」それ自体を変えただろうか。宗教統一のための新しいプロテスタント的「神学」に基づいて作られた新しいミサ式次第それ自体は、多少なりとも「トレント公会議的」に修正を受けたのだろうか。トレント公会議の教えがミサにますます反映されるように何らかの改善があったのか。
1970年には字面だけの改訂こそあれ、実際的なミサの変更は全くなかった。新しいミサの祈りも司式様式も、全然手を付けられなかった。「総則」の見直しは全く理論上のことであって、実践されはしなかった。チェカダ神父はあたかも建築家がある建築物を設計したが、その設計は誤った理論に基づいているため、大変危険なものであることの指摘を受けあわててその設計図に少し手を加えるがしかし建築物はもとの設計図のまま何ら手を加えられていないまま建てられたのと同じだと指摘している。
いま実際世界中で使われている新しいミサ司式は1969年のミサと全く同一のものである。このミサを作るときにその理論的基礎となった神学的原理は、1969年の「総則」の宗教統一のための反トレント的なものなのだ。このことはレンゲィング神父が正しく指摘しているとおりである。
さて、新しいミサを作り上げたローマの典礼学者達はその後も絶えず新しいミサを弁護し続けなければならなかった。
1982年には典礼革命の指導者であるモンシニョール・ブニーニはその「思い出」の中で典礼革命が異端的であるという攻撃をかわすためにものすごい努力を払っている。ここに私たちはオッタヴィアーニ枢機卿の勇気ある介入がどれほど権威があったかその跡を見ることができる。
また同じ1982年の末にはモンシニョール・ブニーニの右腕であり、1969年の総則の著者であるカルロ・ブラーガ師は、この典礼改革がカトリック的であることを弁明しなければならないとまだその必要性を感じていた。ブラーガ師はまさにオッタヴィアーニ枢機卿の批判を意識していたのだ。
最後に
以上がオッタヴィアーニ枢機卿の「批判研究」を取り巻く動きであった。最後にこれらの要点を挙げてみよう。
1)新しいミサ式次第Novus Ordo Missaeと1969年の「総則」に対するオッタヴィアーニ枢機卿の批判とそれに続く議論のために新しい「パウロ6世のミサ」の出版が6ヶ月遅れた。
2)コンシリウムはその当時「総則」は教義上の声明であるというよりもむしろ司牧上・典礼様式上の規定であると宣言した。しかし新しいミサ司式を創作するために最もよく働いていた人々はこの総則を既に教義上・神学上の声明として捉えていたのであるから、コンシリウムのその宣言は嘘に近い。
3)「オッタヴィアーニ枢機卿は1970年2月17日の手紙で自分の新しいミサに対する立場を『撤回』した」というものもいた。しかしもしオッタヴィアーニ枢機卿が本当にその手紙にサインをしたとするならば、それは彼がだまされてしたということを示す要素が余りにも多く、多くの証拠は枢機卿の元秘書であり新しいミサを作るためにきわめて重要な役割を果たしていたモンシニョール・ジルベルト・アグストーニを疑せる。なぜなら彼こそそれをする動機と機会を十分に持っていたからだ。
4)オッタヴィアーニ枢機卿の批判への答えとしてパウロ6世は新しいミサの最終版に「前書き」を付けさせた。この前書きの目的は新しいミサが正統的であるということを主張するためだった。しかし新しいミサの式次第それ自体はこの前書きの言うことにそぐわず、それを何ら支持しない。
5)コンシリウムは「総則」の改訂版を作った。日本にはこの改訂版は導入されていない。しかしこの文章はただ単にオッタヴィアーニ枢機卿の批判をかわすためだてに作られた儚いものだった。そのために総則の改訂版は曖昧な表現を使いミサに対する2つの全く別な理解を同時に提示している。一つはカトリック的な理解、もう一つはプロテスタント、あるいは新近代主義的理解であり、それが同等のものとして載せられている。この2つにミサ観が同等である、ということは意図されたことだ。
6)オッタヴィアーニ枢機卿が批判したのは総則だけではなかった。新しい式次第それ自体をも批判した。しかしそれにもかかわらず新しいミサの式次第それ自体には何らの変更が加えられていない。この新しいミサの式次第を作ったその教義的・神学的基礎と理論は1969年の総則にある。オッタヴィアーニ枢機卿の批判は、この1969年の総則は、カトリックの教えを暗に否定するのもであると指摘している。特にそれは、ミサの犠牲的性格・叙階された司祭の役割・全実体変化などのカトリックがその他のプロテスタント区別されるカトリック的な教えである。そして総則が変わろうが変わらなかろうが、この新しい神学に基づいて作られた新しいミサ司式が世界中で行われて続けている。
現今の新しいミサを捧げる教会では「乱用」や「逸脱」がひどいと人は不平を漏らしている。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿の批判は、新しいミサにおけるこれらの「乱用」「逸脱」は新しいミサの論理に忠実であろうとすればするほど自然で当然の結果に過ぎないと指摘している。カトリック教会の現状を見ると人々は信仰を失い、司祭は自覚を失っている。アメリカ合衆国では1975年には既に主日のミサの参加者が30パーセント、フランスでは43パーセント、1976年にはオランダでは50パーセント減少している。聖座の統計によれば新しいミサが導入されて後7年後には全世界の司祭は413438人から、243307人に激減してしまった。司祭の約半分は司祭職をやめてしまったのだ。アメリカ合衆国において以前には年間十万人以上の改宗があった。しかし新しいミサの導入と共にそれが一万人以下になってしまった。
世界中でそれと同じことを確認することができるが、オッタヴィアーニ枢機卿が警告していたように、パウロ6世によって公式に裁定された典礼改革は「測り尽くせない誤り」であることがますます明らかになってきている。
このオッタヴィアーニ枢機卿は新しいミサを考える上できわめて権威のある歴史的に重要な文章である。しかし日本ではこの文章の存在すらの知られていなく、その価値に言っては人々は全く無知のままである。私自身は以前からこの「批判研究」のことを友人から教えられていたが日本語でなかったためになかなか取り組めなかった。私の愛する日本のカトリック信者の方々のために、特にカトリックの教えを純粋に何も変えずに守ろうと力強い努力を続けている信者の方々に、助けと慰めになればと思いこれを翻訳することにした。
この翻訳のための基礎のテキストとしたものは主にA Critical Staudy of the New Order of the Mass (Novus Ordo Missae) published by Toowoomba Catholic Research Centre: G.P.O. Box 740, Toowoomba, QLD. 4350, or G.P.O. Box 1554, Brisbane, QLD. 4001, Australia.であるが、これはイタリア語からの直訳であり、ラテン語がそのままであり少し難しい。
これの他にもタン・ブックスから出ているThe Ottaviani Intervention: Short critical Study of the New Order of Mass, Alfredo Cardinal Ottaviani, Antonio Cardinal Bacci, A group of Roman Theologians: A new translation with a Preface by Fr. Anthony Cekada: TAN BOOKS and Publishers, inc. P.O. Box. 424 Rochford, Illinois 61105.を参照した。これは非常に良く研究された訳である。これを日本の読者には勧めたい。
またフランス語から出ているBref Examen Critique du Nouvel “Ordo Missae” traduit par Rev. Pere. M. L. Guerard des Lauriers, OP, Editions Sainte Jeanne d’Arc 1983 Vailly-sur-Sauldre, France.(イタリア語原版付き)をも参考にした。
またこのオッタヴィアーニ枢機卿の「批判研究」については、前掲書チェカダ神父のFr. Anthony Cekada: “The Background to the Ottaviani intervention”を参考にした。マイケル・デイヴィスの「パウロ教皇の新しいミサ」(Pope Paul’s New Mass, by Michael Davies, Angelus Press 1980)に全てのドキュメント付きで詳しい。
新しいミサについては、フランス語でLa Nouvelle Messe de Paul VI: Qu’en Penser? par Arnaldo Xavier DA SILVERA: Diffusion de la Pensee Francaise, 1975, Chire-en-Montreuil, Frane.を読んだが、著者はルターの「ミサ」を研究することによって新しいミサとルターの「ミサ」とが如何に著しく似ているこということを指摘している。非常に興味深い。
Father Thomas ONODA,
Society of Saint Pius X,
Our Lady of Victories church, #2 Cannon Road, New Manila, Quezon City,
MM1112, Phhilippines.