トレント公会議(第19回公会議)
(1545年12月13日~1563年12月4日)
決議文 目次
トレント公会議は種々の政治的な紛争のため、そしてまた特にキリスト教生活の真の改革を望まない一部の人々のため、何回も中断され、10数年の長期間を要した。しかし、それまでの公会議の中で一番すぐれたもの、一番実りの多いものとなった。カール5世皇帝の強い要求によって、パウロ3世は1545年3月15日にトレント公会議を召集した。これが9カ月延期されて、1545年12月13日にようやく開催された。会議期間は次のように区別できる。
第1会期(トレントにて):(第1~8総会):1545年12月-1547年3月
この期間には次の諸教令がある
第1総会(1545年12月13日)公会議の開催についての教令。
第2総会(1546年1月7日)公会議中の生活様式とその他の遵守すべきことについての教令。
第3総会(1546年2月4日)信仰宣言についての教令。
第4総会(1546年4月8日) 聖書と聖伝についての教令。
第5総会(1546年6月17日) 原罪についての教令。
第6総会(1547年1月13日) 義化についての教令。
第7総会(1547年3月3日) 秘跡一般および洗礼、堅信についての教令。
第8総会(1547年3月11日) 公会議をボローニヤに移すことの決議。
第2会期(ボローニヤにて):(第9~10総会):1547年3月~(1548年2月)1549年9月
告解、終油、叙階、婚姻の秘跡について討論が行われたが、実質的な教令は一つも公布されなかった。1548年2月に一時的に、実質的に公会議の活動は中止した。そして1549年9月に教皇は正式に中止を宣言した。
第9総会(1547年4月21日)総会を延期する教令。
第10総会(1547年6月2日)総会を延期する教令。
第3会期(トレントにて):(第11~16総会):1551年5月-1552年4月
教皇ユリウス3世は1551年5月1日に公会議をトレントに召集した。
第11総会(1551年5月1日)公会議再開の教令
第12総会(1551年5月1日)総会を延期する教令
第13総会(1551年10月11日)聖体についての教令。
第14総会(1551年11月25日)告解と終油についての教令。
第15総会(1552年1月25日)総会延期の教令。
第16総会(1552年4月28日)公会議一時中断の教令。
第4会期(トレントにて):(第17~25総会):1562年1月~1563年12月
ピオ4世は1560年11月29日に、3回目のトレントでの公会議を1561年4月16日の復活祭に開催するように召集した。しかし実際には、その時から9カ月延期された後、1562年1月18日に最初の(すなわち第17)総会が開催された。
第17総会(1562年1月18日)公会議開催の教令
第18総会(1562年2月26日)本の選択、および、公の保護の元において公会議に皆を招待する教令
第19総会(1562年5月14日)総会延期の教令。
第20総会(1562年6月4日)総会延期の教令。
第21総会(1562年6月16日)聖体拝領について。
第22総会(1562年7月17日)ミサ聖祭についての教令。
第23総会(1563年7月15日)叙階の秘跡についての教令。
第24総会(1563年11月11日)婚姻についての教令。
第25総会(1563年12月3~4日)練獄、聖人の崇敬、聖画像、免償についての教令。
この第25総会を最後に公会議は終了した。
すべての教令は1564年1月26日にピオ4世の大勅書「ベネディクトクス・デウス」によって承認された。その上、教皇は1564年8月2日に諸教令の注解と実施のための枢機卿委員会を設立した。(この大勅書以降、トリエント公会議の決議文に基づいて発布された教令のうち、禁書目録の為の基準「Dominici gregis custodiae」及びトリエント公会議による信仰宣言の大勅書「Iniunctum nobis」を掲載致しております。
(1545年12月13日~1563年12月4日)
決議文 目次
トレント公会議は種々の政治的な紛争のため、そしてまた特にキリスト教生活の真の改革を望まない一部の人々のため、何回も中断され、10数年の長期間を要した。しかし、それまでの公会議の中で一番すぐれたもの、一番実りの多いものとなった。カール5世皇帝の強い要求によって、パウロ3世は1545年3月15日にトレント公会議を召集した。これが9カ月延期されて、1545年12月13日にようやく開催された。会議期間は次のように区別できる。
第1会期(トレントにて):(第1~8総会):1545年12月-1547年3月
この期間には次の諸教令がある
第1総会(1545年12月13日)公会議の開催についての教令。
第2総会(1546年1月7日)公会議中の生活様式とその他の遵守すべきことについての教令。
第3総会(1546年2月4日)信仰宣言についての教令。
第4総会(1546年4月8日) 聖書と聖伝についての教令。
第5総会(1546年6月17日) 原罪についての教令。
第6総会(1547年1月13日) 義化についての教令。
第7総会(1547年3月3日) 秘跡一般および洗礼、堅信についての教令。
第8総会(1547年3月11日) 公会議をボローニヤに移すことの決議。
第2会期(ボローニヤにて):(第9~10総会):1547年3月~(1548年2月)1549年9月
告解、終油、叙階、婚姻の秘跡について討論が行われたが、実質的な教令は一つも公布されなかった。1548年2月に一時的に、実質的に公会議の活動は中止した。そして1549年9月に教皇は正式に中止を宣言した。
第9総会(1547年4月21日)総会を延期する教令。
第10総会(1547年6月2日)総会を延期する教令。
第3会期(トレントにて):(第11~16総会):1551年5月-1552年4月
教皇ユリウス3世は1551年5月1日に公会議をトレントに召集した。
第11総会(1551年5月1日)公会議再開の教令
第12総会(1551年5月1日)総会を延期する教令
第13総会(1551年10月11日)聖体についての教令。
第14総会(1551年11月25日)告解と終油についての教令。
第15総会(1552年1月25日)総会延期の教令。
第16総会(1552年4月28日)公会議一時中断の教令。
第4会期(トレントにて):(第17~25総会):1562年1月~1563年12月
ピオ4世は1560年11月29日に、3回目のトレントでの公会議を1561年4月16日の復活祭に開催するように召集した。しかし実際には、その時から9カ月延期された後、1562年1月18日に最初の(すなわち第17)総会が開催された。
第17総会(1562年1月18日)公会議開催の教令
第18総会(1562年2月26日)本の選択、および、公の保護の元において公会議に皆を招待する教令
第19総会(1562年5月14日)総会延期の教令。
第20総会(1562年6月4日)総会延期の教令。
第21総会(1562年6月16日)聖体拝領について。
第22総会(1562年7月17日)ミサ聖祭についての教令。
第23総会(1563年7月15日)叙階の秘跡についての教令。
第24総会(1563年11月11日)婚姻についての教令。
第25総会(1563年12月3~4日)練獄、聖人の崇敬、聖画像、免償についての教令。
この第25総会を最後に公会議は終了した。
すべての教令は1564年1月26日にピオ4世の大勅書「ベネディクトクス・デウス」によって承認された。その上、教皇は1564年8月2日に諸教令の注解と実施のための枢機卿委員会を設立した。(この大勅書以降、トリエント公会議の決議文に基づいて発布された教令のうち、禁書目録の為の基準「Dominici gregis custodiae」及びトリエント公会議による信仰宣言の大勅書「Iniunctum nobis」を掲載致しております。