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1510~1516:第5総会:原罪についての教令
(1546年6月17日)
1546年5月24日に原罪についての討議が始まり、ピエトロ・パチェコ枢機卿ほ聖母マリアの無原罪の受胎を定義するようほのめかした。草案、特に6月5日に提出された草案と決議文とを比較すれば、この辺の事情がよく解る。この教令は、ルター派の原罪と欲情の関係についての意見および再洗礼派の実践とに反対するものである。
1510(787)「信仰なしに天主を喜ばせることはできない」(ヘブライ11・6)が、カトリック信仰から誤謬を取除き、それが傷つけられることなく完全に守られるように、また、キリストを信ずる民が「さまざまな教えの風に吹きまわされる」(エフェソ4・14)ことがないようにしなければならない。人類の永遠の敵であるあの昔の蛇が、多くの悪によって最近、天主の国を混乱させているからである。また、原罪とその救済策について、新しい異説を古い異説とともに唱えているからである。…聖なるトレント世界教会会議は、誤謬におちている者を呼戻し、迷っている者を固定させるために、聖書と聖なる教父と公会議の確実な証言、および教会の判断に従って、原罪について次に述べることを決定し、告白し、宜言する。
1511(788) (1) 人祖アダムは楽園で天主の掟にそむいた結果として、天主から与えられていた聖性と義を失い、この過失のために天主の怒りといきどおりとを買い、最初に天主が罰としてきめた死を招き、死によって「死の国の権力を持つ」(ヘブライ2・14参照)悪魔の勢力に属するようになった。その不従順のために霊魂も肉体もともに悪化してしまった(DzS371参照)。これを認めない者は排斥される。
1512(789)(2) アダムは天主から受けた聖性と義とをその罪によって、自分だけを傷つけ失ったのであって、その子孫である私たちのために傷つけ失ったのでほないと主張する者;恥ずべき不従順の罪によって、「全人類に肉体だけの死が伝わったのであって、霊魂の死である罪は伝わらなかった」と主張する者は排斥される。これに対して使徒は次のように言っている。「一人の人によって罪が世にはいり、また罪によって死が世にはいって、すべての人が罪を犯したので、死が皆の上に及んだ」(ローマ5・12)(DzS372をみよ)。
1513(790)(3) このアダムの罪は起源が一つであり、模倣によってではなく、遺伝によって伝えられて、すべての人に一人一人に固有のものとして内在するものである。キリストは「われわれにとって、天主の知恵と正義と救い」となり(1コリント1・30)自分の血をもってわれわれを天主と和解させたのであるが、このアダムの罪を人間の自然の力、または唯一人の仲介者である私たちの主イエズス・キリストの功績(DzS1347)以外の方法で取去ることができると主張する者、また、このキリストの功績が、教会の定式に従って授けられた洗礼の秘跡を通して幼児にも大人にも適用されることを否定する者は排斥される。なぜなら、「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は人間に与えられなかった」(使徒行録4・12)からである。そこで「世の罪を取除く天主の小羊を見よ」(ヨハネ1・29参照)という声がしたのである。また「キリストの洗礼を受けた者は、みなキリストを着ている」(ガラチア3・27)のである。
1514(791)(4)洗礼を受けている両親から生れたにしても、「母親の胎内から生れた幼児に洗礼を授けることを拒否する者」、または「罪の赦しのために彼らは洗礼を受けているが、アダムの原罪からは永遠の生命を得るために再生の水洗いによって償わなければならない何ものをも受継いでいない」、罪の赦しのための洗礼の形式は本当のものでなく、まちがいのものであると解釈すべきである、と言う者は排斥される。「一人の人間によって罪がこの世にはいり、また罪によって死がこの世にはいって、すべての人が罪を犯したので、死がみんなの上に及んだ」(ローマ5・12)という使徒の言葉を、世界中に広がっているカトリック教会が常に理解している通りに解釈すべきである。使徒たちから伝わったこの信仰基準に従って、自分の罪を犯すことができない幼児も、罪の赦しのため、そしてこの再生によって、出生によって受継いだ汚れから清められるために洗礼を受けるのである(DzS223参照)。「水と霊とによって生れない人は、天主の国にはいれない」(ヨハネ3・5)からである。
1515(792)(5) 洗礼の時に与えられる私たちの主イエズス・キリストの恩恵によって原罪が赦されることを否定する者や、本当の意味での罪が取除かれるのではなく、単に罪が拭取られるとか注、あるいは罪として問いただされないだけであると主張する者は排斥される。「キリストの死における洗礼によって、彼とともに葬られた者」(ローマ6・4)、「肉によって生活しない者」(ローマ8・1)、「古い人」を脱捨てて、「正義とまことの聖徳とにおいて、天主にかたどって作られた新しい人を着る者」(エフェソ4・22以下、コロサイ3・9以下)、無垢で、汚れなく、清く罪のない天主の愛子となり、「天主の相続人、キリストとともに相続人」(ローマ8・17)となり、天国にはいることを妨げるものは何一つとしてない。洗礼を受けた者にも、なお、心戦のために欲情や罪への傾きが残ることをこの聖なる公会議は説くものである。しかし、それらの欲情はそれに同意せず、イエズス・キリストの恩恵によって勇敢に抵抗する者には危害を加えることはできない。むしろ「規定に従って戦った者には栄冠が与えられる」(2チモテ2・5)この欲情を使徒は罪と呼んでいることもあるが(ローマ6・12以下7・7 14~20)、教会はこれを、洗礼を受けた者にとって本当の意味での罪であると解釈したことはなく、むしろ罪の結果として罪への傾きと解釈すべきであると聖なる公会議は宣言する。これに反対する者は排斥される。
注アウグステイヌス・Ctr.duas ep.pelagianorum、1b・I・C.13§26(CSEL60、445;PL44、562)。
1516 (6) この聖なる公会議は、この教令の中の・原罪についての項において、天主の母聖マリアを含める意図はないと宣言する。むしろ教皇シクストゥス4世の教令とその教令に含まれている刑罰を新しく認めるものである(DzS1400、1425~1426参照)。
(1546年6月17日)
1546年5月24日に原罪についての討議が始まり、ピエトロ・パチェコ枢機卿ほ聖母マリアの無原罪の受胎を定義するようほのめかした。草案、特に6月5日に提出された草案と決議文とを比較すれば、この辺の事情がよく解る。この教令は、ルター派の原罪と欲情の関係についての意見および再洗礼派の実践とに反対するものである。
1510(787)「信仰なしに天主を喜ばせることはできない」(ヘブライ11・6)が、カトリック信仰から誤謬を取除き、それが傷つけられることなく完全に守られるように、また、キリストを信ずる民が「さまざまな教えの風に吹きまわされる」(エフェソ4・14)ことがないようにしなければならない。人類の永遠の敵であるあの昔の蛇が、多くの悪によって最近、天主の国を混乱させているからである。また、原罪とその救済策について、新しい異説を古い異説とともに唱えているからである。…聖なるトレント世界教会会議は、誤謬におちている者を呼戻し、迷っている者を固定させるために、聖書と聖なる教父と公会議の確実な証言、および教会の判断に従って、原罪について次に述べることを決定し、告白し、宜言する。
1511(788) (1) 人祖アダムは楽園で天主の掟にそむいた結果として、天主から与えられていた聖性と義を失い、この過失のために天主の怒りといきどおりとを買い、最初に天主が罰としてきめた死を招き、死によって「死の国の権力を持つ」(ヘブライ2・14参照)悪魔の勢力に属するようになった。その不従順のために霊魂も肉体もともに悪化してしまった(DzS371参照)。これを認めない者は排斥される。
1512(789)(2) アダムは天主から受けた聖性と義とをその罪によって、自分だけを傷つけ失ったのであって、その子孫である私たちのために傷つけ失ったのでほないと主張する者;恥ずべき不従順の罪によって、「全人類に肉体だけの死が伝わったのであって、霊魂の死である罪は伝わらなかった」と主張する者は排斥される。これに対して使徒は次のように言っている。「一人の人によって罪が世にはいり、また罪によって死が世にはいって、すべての人が罪を犯したので、死が皆の上に及んだ」(ローマ5・12)(DzS372をみよ)。
1513(790)(3) このアダムの罪は起源が一つであり、模倣によってではなく、遺伝によって伝えられて、すべての人に一人一人に固有のものとして内在するものである。キリストは「われわれにとって、天主の知恵と正義と救い」となり(1コリント1・30)自分の血をもってわれわれを天主と和解させたのであるが、このアダムの罪を人間の自然の力、または唯一人の仲介者である私たちの主イエズス・キリストの功績(DzS1347)以外の方法で取去ることができると主張する者、また、このキリストの功績が、教会の定式に従って授けられた洗礼の秘跡を通して幼児にも大人にも適用されることを否定する者は排斥される。なぜなら、「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は人間に与えられなかった」(使徒行録4・12)からである。そこで「世の罪を取除く天主の小羊を見よ」(ヨハネ1・29参照)という声がしたのである。また「キリストの洗礼を受けた者は、みなキリストを着ている」(ガラチア3・27)のである。
1514(791)(4)洗礼を受けている両親から生れたにしても、「母親の胎内から生れた幼児に洗礼を授けることを拒否する者」、または「罪の赦しのために彼らは洗礼を受けているが、アダムの原罪からは永遠の生命を得るために再生の水洗いによって償わなければならない何ものをも受継いでいない」、罪の赦しのための洗礼の形式は本当のものでなく、まちがいのものであると解釈すべきである、と言う者は排斥される。「一人の人間によって罪がこの世にはいり、また罪によって死がこの世にはいって、すべての人が罪を犯したので、死がみんなの上に及んだ」(ローマ5・12)という使徒の言葉を、世界中に広がっているカトリック教会が常に理解している通りに解釈すべきである。使徒たちから伝わったこの信仰基準に従って、自分の罪を犯すことができない幼児も、罪の赦しのため、そしてこの再生によって、出生によって受継いだ汚れから清められるために洗礼を受けるのである(DzS223参照)。「水と霊とによって生れない人は、天主の国にはいれない」(ヨハネ3・5)からである。
1515(792)(5) 洗礼の時に与えられる私たちの主イエズス・キリストの恩恵によって原罪が赦されることを否定する者や、本当の意味での罪が取除かれるのではなく、単に罪が拭取られるとか注、あるいは罪として問いただされないだけであると主張する者は排斥される。「キリストの死における洗礼によって、彼とともに葬られた者」(ローマ6・4)、「肉によって生活しない者」(ローマ8・1)、「古い人」を脱捨てて、「正義とまことの聖徳とにおいて、天主にかたどって作られた新しい人を着る者」(エフェソ4・22以下、コロサイ3・9以下)、無垢で、汚れなく、清く罪のない天主の愛子となり、「天主の相続人、キリストとともに相続人」(ローマ8・17)となり、天国にはいることを妨げるものは何一つとしてない。洗礼を受けた者にも、なお、心戦のために欲情や罪への傾きが残ることをこの聖なる公会議は説くものである。しかし、それらの欲情はそれに同意せず、イエズス・キリストの恩恵によって勇敢に抵抗する者には危害を加えることはできない。むしろ「規定に従って戦った者には栄冠が与えられる」(2チモテ2・5)この欲情を使徒は罪と呼んでいることもあるが(ローマ6・12以下7・7 14~20)、教会はこれを、洗礼を受けた者にとって本当の意味での罪であると解釈したことはなく、むしろ罪の結果として罪への傾きと解釈すべきであると聖なる公会議は宣言する。これに反対する者は排斥される。
注アウグステイヌス・Ctr.duas ep.pelagianorum、1b・I・C.13§26(CSEL60、445;PL44、562)。
1516 (6) この聖なる公会議は、この教令の中の・原罪についての項において、天主の母聖マリアを含める意図はないと宣言する。むしろ教皇シクストゥス4世の教令とその教令に含まれている刑罰を新しく認めるものである(DzS1400、1425~1426参照)。