聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

ヨガ、禅、分かち合いミサ

2017-06-13 14:50:19 | 公開書簡
 今から少し前にこんな新しいことがありました。いくつかの教会の入り口に、次のようなポスターが掲示されていたのです。「手を打って神を賛美せよ」と。ですから、式の途中で、司会者の合図のもとに会衆は頭の上に手を挙げて、拍子にあわせて元気いっぱい手を打ちならしたのです。それは、至聖所のまっただ中で異例な大騒ぎを醸し出したのです。この手の革新は、私たちの習慣とは切り離れた、しかも俗世間にもそのような習慣がないにもかかわらず、典礼の中にこの様な人工的なしぐさを導入しようと試みているのです。この様な革新にはきっと明日がないでしょう。しかしこの様な革新はカトリック信者をして失望させ、彼らを当惑に陥れることはするのです。確かに「福音の夜」というものに行かないようにしようとすれば出来ますが、少ない主日のミサで、この様な嘆かわしいことばかりをやっているのだとすれば、どうしたらよいのでしょうか?

 今日の専門用語の「合同司牧」というものは、信者に新しいしぐさをするように強制しています。信者はその効用が分からず、それは信者の性にも合いません。まず何よりも、何もかも集団でなされなければならないのです。言葉の分かち合い、福音の分かち合い、見方の分かち合い、握手など。平信徒は顔をしかめつつも従っています。統計の数字がそれを示しています。最近の統計によれば、1977年と1983年の間に聖体祭儀に通う人の数は新たな減少を見せていますが、個人的な祈りは少しですが増加しました。

 1983年9月のMadame Figaro-Sofresのアンケートによる。最初の質問は、「あなたは週に一度以上あるいは、月に約一度、聖体拝領をしていますか?」これは殆どミサに参加する人との数に対応するでしょう。なぜなら、今日では皆がミサに参加すると聖体拝領するからです。ハイと応えた人は16%から、9%に落ちました。

 ですから、「合同司牧」は、カトリックの民を獲得しなかったのです。

 次のものは私がパリの周辺のある教区報の中で見た記事です。

「この二年間九時半のミサは、時々少し変わった様式でなされていました。それは福音の宣言の後に分かち合いがあり、その分かち合いのために信者は十人程度のグループに分かれていたからです。事実最初にそのような試みをしたときには69人の人々が分かち合いのグループを作り、やってみました。138人の信者はそれに加わりませんでした。時がたてばこの様なこの様な状況がなくなるかとも思っていましたが、そうではありませんでした。」

 ですから教区チームはこの「分かち合いのあるミサ」を続けるかどうするかと決めようと会議を開きました。教区民の三分の二がその時まで公会議後の新しいやり方に抵抗してきたというのが分かります。彼らは、ミサの最中に気ままなおしゃべりをするのを好ましく思っていなかったのです。現代においてカトリック信者であるということは何と難しいことでしょうか!フランス語の典礼は、たとえ「分かち合い」がなかったとしても言葉の洪水で参列者をおぼれさせています。多くの信者は、ミサの間にもう祈ることが出来なくなったと嘆いています。ミサでお祈りが出来なくなったとしたらでは一体いつ彼らは祈るのでしょうか?

 混乱しているキリスト者には、それを治す処方箋が提案されています。但しその処方はカトリックの霊性から遠ざかっているという条件においてのみ、聖職位階の方々からいつも認可され信者に与えられているのです。例えば、ヨガとか禅とかというカトリックの霊性から最もかけ離れたものなどを。この様な東洋尊重主義というひどいもののために、「精神衛生」へと導くと言いつつ、本当の敬虔の念を誤った道に踏み外させています。

 体を使った表現ということの及ぼす悪影響、人格の劣化、それと同時に、天主へと心を挙げることに全く反する肉体の高揚、これらについても誰か話している人がいるでしょうか?観想修道会にまでその他諸々のことと同時に導入されたこれらの最新の流行は、極めて危険なものです。これらのために「私たちの宗教は変えられてしまっている!」という人たちには、まさにその通りだと言わねばならないのです。(この項続く)


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