聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

聖体行列も聖母行列も聖体降福式も晩課もなくなった

2017-06-13 14:49:30 | 公開書簡
 もはやミサはありませんし、あっても殆どありません、聖体行列も聖母行列もありません、聖体降福式ももうなくなりました。晩課もなくなりました。共通の皆でする祈りは、最も単純化された形に引き下げられました。信者は時間割を調節して、交通の不便を乗り越えようやくのことで教会にたどり着いたとき、彼の霊的渇きを癒すものに何を見いだすことが出来るでしょうか。典礼それ自体と、典礼がひどく変わってしまったことについては後に話すことにして、さしあたり、その外面的な点、この共通の祈りの形式について話を限定しましょう。

 まず、挙式(celebrations)の雰囲気が余りにも頻繁にカトリック信者の宗教的感性を傷つけるものです。あらゆる種類の打楽器とか、ギターやサクソホンを使った世俗的なリズムが侵入しました。ある宗教音楽の担当の音楽専門家は、フランスのノール教区にいますが、こう書いています。彼の言っていることを音楽の世界の多くの著名な人物たちが認めています。

「そこらでよく聞く言い方とは裏腹に、これらの新しい歌の音楽は近代的でなありません。この音楽の様式は新しいものではなく、非常に世俗的な場所や環境ではよく聞かれていたのです。例えば、キャバレーとかミュージック・ホールとか、多かれ少なかれ猥褻な外国の名前を付けられたダンスのためにこの音楽が使われていました。・・・人々は駆り立てられて体を動かす、言いかえるとスイングします。皆は暴れ回りたくてたまらないのです。ほら、これが私たちの西洋文化にとってはおよそよそ者である「からだを使った表現」なのです。これは沈思黙考するには余りふさわしくなく、むしろこれは、混乱から生じたものなのです。・・・私たちの集会は、八分の六拍子の時、四分音符と八分音符とを同じにしないだけでも大変苦労しています。ですから彼らは大部分の場合正確なリズムを守らず、打ちが足りないこともあります。そうするともう暴れ回ろうと言う気持ちも起こらず、リズムは崩れ、メロディーの線がいつも持っている貧しさをさらに露骨に見せることになります。」

 その様な音楽の中で祈りはどうなるのでしょうか?幸いなことに、これ程野蛮ではないような習慣に立ち戻ったところもあるようです。しかし、その場合でも、歌を歌うときには教会音楽の公式の専門当局の作った歌を歌わねばならないのです。なぜなら過去の数世紀にもわたる素晴らしい遺産を使うことは問題外だからです。いつものメロディーはいつも同じで、本当に平凡なインスピレーションのものです。もっと洗練された聖歌隊が歌う曲は、世俗の影響を受け、グレゴリオ聖歌が霊魂にまで染み通るに比べて、これは霊魂にまでは入らず感覚をくすぐるだけです。

 歌詞は新しい言葉遣いで全く新しく作り直され、あたかも今から二十年ほど前に、ノアの時代の大洪水があって、全ての聖歌の本を破壊し尽くしたかのようです。なぜなら、たとえ新しいものを作るにしても、その様な昔の聖歌集から息吹を受けることもできただろうからです。こんな歌詞は、その時のスタイルを取り入れているのですぐに時代遅れになり、すぐに理解不可能なものになってしまうでしょう。

 教区教会の「司式(animation)」のために作られた数えけれないほどのレコードが詩篇を説明するために普及しています。しかし、それは詩篇の注解でしかなく、詩篇そのものではないのです。こうしてこのレコードは天主が息吹いた神聖な文章を歌わないのです。何故詩篇それ自身を歌わないのでしょうか?


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