聖ピオ十世会日本 第13回公式秋田巡礼の意向(2019年5月1日~5月4日)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
秋田巡礼をなさる愛する兄弟姉妹の皆様、、
カトリック教会は、四旬節を通して、私たちがキリスト教の核心である真実の人間観を黙想させます。人間とは何なのか、何のためにこの地上に生きているのか、人間の究極的な価値とは何なのか、を。四旬節を良く過ごすことによって、キリストの花嫁である教会は、私たちが超自然の天主へと心を上げること、被造物への愛着を離脱して創造主である天主へと立ち戻らせようとします。
私たちの究極の目的は、永遠の天主の命に至ることです。天主は私たちを愛し、愛するが故に私たちを創造され、私たちは溢れるばかりの愛を受けています。全人類は、男も女も、裕福な者も貧しい者も、どの言語であれ、どの民族であれ、すべて天主によって愛されて創られました。私たちを天国に導くために、天主の御独り子は人間となり、苦しみ給い、復活されました。私たちは全て、道、真理、命であるイエズス・キリストに導かれています。
キリスト教は、私たちが天主の愛を知るのみならず、天主を愛することを教えます。被造物への無秩序な愛着を離れて、天主を志向すること、言い換えると、被造物を究極の目的として求めるのではなく、天主を究極の目的として被造物はそれに至る手段として使うことを教えています。
聖パウロはエフェゾ人への手紙の中で書いています。
「天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。それは、愛する子によって、私たちに無償でさずけられた恩寵の光栄のほまれのため(in laudem gloriae gratiae suae)であった。(…)天主は、そのみ旨の奥義をお知らせになった、あらかじめ天主が、キリストにおいて立てておられた慈悲深いご計画を。それは、時がみちれば実現されるものであり、天にあるもの、地にあるもの、すべてを、唯一の頭であるキリストのもとに集める(instaurare omnia in Christo)という奥義であった。」
私たちの主の40日の祈りと断食は、肢体である私たちも頭である主に倣うように招いています。何故なら、私たちはただ単に石ころのようにあるだけ、存在しているだけの物体ではないからです。人間は、植物のようにただ生きているだけでも、野生の動物のように寝て食べるだけでもありません。人間は物質を超えて、超自然の秩序に参与するように創られています。目に見える世界を超えて、祈りの世界に招かれています。
四旬節は、人間が何であるかを思い出させてくれます。私たちがイエズス・キリストに行くことを促してくれます。
ところで、イエズス・キリストの40日の荒野での祈りと断食のあと、悪魔が試みたように、悪魔は全てをキリストのもとに集めるという天主の計画に妨害を入れてきます。
悪魔はアダムとエワの時から同じやり方を使います。一言で言えば、天主への反乱です。
私たちの主も、荒野で天主の御旨に反して石をパンに変えて食べるようにと試みを受けました。現代も、サタンは、私たちが天主を忘れて、この世の世界の建設のためだけに、野獣のように食べて快楽を求めるだけの存在だけだと思い込ませようとしています。人間は単なる原子の集まりで、進化して偶然に出来た、物質的で機械的な存在にすぎず、ただ食べて労働するだけの存在だと信じ込ませようとしています。(アダムとエワも、天主の御旨に反して食べるように誘惑を受けました。)このような間違った考え方を唯物論と言います。いいえ、人間は単なる物質ではありません。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る総てのことばによって生きる」のです。
さらに悪魔は、イエズスを聖なる都につれて行き、神殿の頂上に立たせて、「あなたが天主の子なら、下に身を投げなさい。"天主は、あなたのためにその天使たちに命じ、天使たちは、あなたの足が石に打ちあたらないように、手で支えるだろう"と書かれているのだから」と言い、自分がやることは何でも成功すると思い込ませようとしました。現代では、悪魔は、既存の「腐敗した」社会制度を破壊さえすれば、全ては自動的に、より良い世界が到来する、と思い込ませようとしているようです。破壊的で無謀な行為をするなら、自然に良い社会がやって来る、と。
ベネディクト十六世は共産主義が同じ誘惑をしていると指摘しています。「彼(=マルクス)は、単純に、支配階級の財産を没収し、統治勢力の没落と生産手段の社会化で、新しいエルサレムが実現されることを考えた。その後、実際、全ての矛盾が解決され、人間と世界は、最終的に浄化されると見たからだ。この後、全てのことは自ずから正しい道を歩み始めることになる、と。何故なら全ての財貨は全ての人々に帰属され、全ての人々は互いに最善のことを望むようになるからだ。」(Spes Salvi, 21)
つまり共産主義は、悪魔のように嘘の約束をします。下に身を投げなさい。社会を下方に打ち投げなさい。革命により、既存の価値と秩序を破壊すれさえすれば良い、既存の政治勢力を破壊し、富める者の財産を奪って貧しい者に分配すれさえすれば、美しい善人のみが住む世界がやって来る、天主の御国が建設される、地上の楽園、人間の幸せな王国がやって来る、終わりのないユートピアの世界が来る、と。(アダムとエワも、天主の御旨に反しても成功すると思い込ませる罠がかけられました。)
最後に、悪魔は、また、私たちの主を、非常に高い山につれていき、世のすべての国とその栄華とを見せ、「あなたが、ひれ伏して私を礼拝するなら、これらをみなあなたに与えよう」と言います。悪魔は空しい約束をして、サタンの言葉を信じて、サタンを礼拝するなら、全ての権力と富を与えよう、と。現代でも、サタンの言葉を信じるなら、人間の幸せな楽園がこの地上に到来する、と約束しているようです。
私たちの主はこう教えています。「あなたたちは、はいならはい、いいえならいいえ、とだけいえ。それ以上のことは、悪魔から出る」と。しかし、サタンによれば「はい」は「いいえ」であり、「いいえ」と「はい」は同じです。サタンは弁証法を説くかのようです。「"はい"は、"いいえ"という矛盾に対立したのち、止揚して高次の段階に運動する。"はい"を"はい"と認めることを拒み、"はい"を破壊し、止揚させなければならない。」
(アダムとエワも、天主の言葉を疑い、天主に逆らえば、人間は天主のようになると、そそのかされました。)
ファチマの聖母が1917年7月13日におっしゃった預言を思い出します。「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」
1917年に聖母がおっしゃった、世界中に広がる「ロシアの誤謬」とは、何でしょうか?多くのファチマの専門家たちは、それはボルシェビキ革命思想であり、共産主義である、と主張します。
では革命思想や共産主義の核心は何でしょうか? それは根本的にどういうものなのでしょうか? まず、人間とは何かという人間観において、カトリックと共産主義とは根本的に対立しています。
1)唯物論
カトリック信仰は私たちにこれを教えています。人間が天主から愛されて創られたこと。人間の究極の目的は、最高の善である天主を知り、愛し、所有すること。人間のもっとも高貴な能力である理性(知性と意志)を使い、天主からの超自然の恵みの助けを得て、最も高貴な対象である天主(最高の真理、最高の全、最高の美)を観想し・感嘆し・幸福であること。私たちの至福は、私たちが永遠の昔から天主の愛を受け続け、愛されていることを深く理解し、その愛の中に浸り、天主を愛し返すことにあること。私たちにとっての本当に価値のあるものは、この世を超越する目に見えないところにあること。人間の本当の価値は、人間を超えるもとと一致して完成すること。
共産主義は、人間を単なる物質としてのみとらえます。この世の目に見える世界のみが実在して、この世を超越する世界を否定します。人間も、単なる動物だ、単なる機械と変わらないとします。
キリスト教によれば、天主によって全被造物は位階秩序の内に創られたと教えます。鉱物、植物、人間以外の動物、人間、そして天使らです。全世界の究極はキリストです。人間となった天主御自身です。聖パウロがエフェゾ人への手紙において言うとおりです。それが天主が「キリストにおいて立てておられた慈悲深いご計画」です。
「天にあるもの、地にあるもの、すべてを、唯一の頭であるキリストのもとに集める」ことです。「イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といいあらわすため」です。(テイヤール・ド・シャルダンの主張するようなオメガ天としてのキリストへの被造物の進化ではありません。)
共産主義によれば、世界は物質のみから成り立っており、全ては原子の集まりで、全ては、物質主義的に説明が付く、検証が可能な実証主義的世界だ、自然科学で全てが説明が付く、全宇宙の秘密は全て物質によって説明される、と言います。
カトリック神学によれば、人間として「ある」ということは次の観点から考察されます。「ある」にはいわば厚みがあり、最高のあり方とは天主が「ある」(ましまし給う)その永遠・無限・全善・完全な「あり」方です。天主の「ある」に被造物は参与していますが、被造物のあり方には制限・限界があります。
(1) まず、人間が存在しているという観点。
(2) 次に、人間が生活し(植物的存在)、快楽を要求する感覚を持った動物であるという観点。
(3) 更に、人間が理性を持ち人間であるということ、徳と善とを追求するという観点。
(4) 最後に、人間が超自然の天主の聖寵によって、天主と共に永遠の天主の命のまどいに参与するように招かれているという観点。
人間が作り上げる社会も、この観点から考察されます。
(1a) 人間社会が存在しているという観点。これに人間の機械的労働が対応する。
(2a) 人間社会が快楽を追求するという観点。物質の流通や経済がこれに対応する。(3a) 人間社会が善徳を追求するという観点。共通善を追求する国家統治がこれに対応する。
(4a) 人間社会が究極の善である天主を追求するという観点。真の宗教がこれに対応する。
しかし、共産主義はこのような秩序を拒否します。人間は単なる物質にすぎなく、存在しているにすぎないと主張するからです。共産主義によると、人間は「天主から愛されている子供」でもなければ、徳と善を追求する存在としての人間でもなければ、単なる物質です。労働する機械です。工場の中に組み込まれた歯車の一つです。
共産主義によると、人間の最高の価値は物質的生産を行う労働であり、人間が労働の実り(その成果)を享受するか否かにかかわらず、目的もない労働そのものだけが価値を持つと言います。
共産主義の主張によると、人間とは、奴隷のように労働すること、ただ単に働く奴隷なのです。人間の歴史は、原始時代から現代に至るまで、生産手段が一体誰に属するかという事実によって規定されている、と言います。経済発展の歴史とは、生産手段を誰が持つかの歴史だ、とするのです。社会発展の歴史は、この意味での「経済発展」の歴史だと。
2)唯物論的弁証法
共産主義の第2の重要な要素は、物質主義の他に、へーゲルという人が作った「弁証法」です。彼は、「大論理学」と言われている本の中で最初に説明しています。それによると、「ある」とは、薄っぺらいもので、いわば材料のように規定されておらず、「無い」と同じである。「ある」ということにも「人間としてある」も「石ころとしてある」も「あり方」の厚みがあることを認めようとせず、すべて石ころのようにただ「ある」だけのみの意味しか理解しようとしませんでした。
弁証法は、この「有る」と「無い」が同一であるという主張の上に成り立ちます。つまり、矛盾律を否定するところに成立します。同じ観点から同時に「純粋な有る」は「純粋な無い」と同じであり、しかしそれと同時に絶対的に異なる、と主張します。この矛盾から何かが「成る」「動く」と。
カトリックによれば、人間は、真理を知り、愛の命を生きることによって完成されます。最高に完成された、無限に善である、変わることのない安定した真理そのものである天主の「ある」と愛の一致です。しかしこれを否定する弁証法は、真理の反対、安定の破壊、善の破壊、命の破壊へと向かいます。つまり、虚偽と、憎悪と、死です。
そこで弁証法は次のように主張します。今一つの命題があるとすると、それに対する反対の命題があります。たとえば、「Aである」という命題があるとすると、それに反対して「Aでない」とする命題があります。第二の命題は第一の命題を否定します。ヘーゲルは、この第一と第二の命題が対立し、時が経つと、両者を含み且つ超越する第三の高次的の立場に解消する、と主張しました。第一と第二の命題の対立が発展して、第三のものに「止揚される」(アウフヘーベン aufheben される)と言いました。
ヘーゲルによると、肯定は、否定を要請し、肯定と否定との対立は、否定の否定を要請します。否定の否定とは、肯定を止揚する(aufheben)ことで、新しい肯定となって、更なる否定を自然と生み出し云々、終わりなき運動を続けると主張しました。ヘーゲルは論理学の中で「矛盾は全ての運動の根源である」と言っています。つまり「闘争」(運動)しつづけ無ければならないのです。
(肯定と否定との間にある関係は「疎外」(ドイツ語 Entäusserung 英語 alianation)と言われます。これは肯定が否定されて自分が自分でなくなること、自分が自分に対してよそ者のようになることを意味し「疎外」と言います。この疎外の中には、苦しむという概念を含んでいます。ヘーゲルの使った単語「疎外」 Entäusserung とは、"hat sich selbst geäussert" という表現の名詞形です。この表現は、聖パウロのフィリッピ人への手紙のなかの「自分自身を無とした」をルターが訳した時に使った表現でした。共産主義は、カトリック神学の歪曲であるとも言えます。)
共産主義によれば、歴史の発展のためには「闘争」「否定」「破壊」がなければなりません。そこで闘争と不和と憎しみの種を作り出して蒔きます。たとえば「帝国主義」と「反帝国主義」、「階級闘争」、などです。
しかし人間は闘争のために生まれてきたわけでも、労働だけのために生まれてきたわけでもありません。社会や民族の第一の目的は経済発展ではありません。闘争や破壊は、人間を不幸にさせるだけです。
私たちの主イエズス・キリストも、ローマ帝国のユダヤ支配に対して反旗を振りかざして独立運動をしたこともなければローマ軍駐屯反対をしたこともありません。奴隷制度廃止運動も、死刑制度反対も、差別反対運動も、なさいませんでした。イエズス・キリストが教えたことは、天主が最後の審判者であること、復讐は天主の業であること、私たちの霊魂を地獄に落とすことが出来る天主を畏れること、自分が赦されるために隣人を赦すことでした。
共産主義は、憎しみと分裂と闘争と対立を故意に引き起こさせようとします。
中世の国において、カトリック信仰により、人々は天主へと心を上げて、あたかも天主の家に住んでいました。しかし、ルネッサンスの国において、人々の心は天主を離れて人間中心になったとすると、またブルジョワの国において人々は快楽と官能の満足を追求したとすると、共産主義の世界においては、人間の究極の目的は、革命と闘争を通して、共産主義世界を建設することである、ついには共産主義社会という巨大な工場で働くことである、となることでしょう。
そこで共産主義が権力を取ると、人間は、宗教も、政治も否定され、単なる労働する機械としてのみ存在することになります。しかし人間を労働にかき立てるのは、天主への愛でもなければ、善を望む心でもなく、恐怖と監視によらざるをえません。
ところで、教会の内部でさえ、たとえ「共産主義」という名前は付いていなかったとしても、「正義と平和」の名前のもとで、「人権」と「民主主義」の名のもとで、教会の中にでさえ、悪魔の働きが入り込んでいます。
François Dufay 神父著 En Chine: L'étoile contre la croix (Nazareth-Press, 1952)によると、一歩一歩の段階を経て、中国におけるカトリック教会内部にまで浸透したことが報告されています。それと同じ手段が日本でも取られているかのようです。つまり「弁証法」です。中国では毛沢東は弁証法の理論家であり実践家でした。共産主義は、究極的には国家や祖国という概念を廃止し、インターナショナルな政治組織を作ることを目標に据えていますが、毛沢東は、共産主義を浸透させるために、戦略的に「愛国心」や「民族主義」や「ナショナリズム」を利用しました。共産主義の政治を全て飲み込ませるためでした。
中国では第一段階で、「民族主義」「ナショナリズム」の弁証法が導入されました。宗教の独立と、カトリック教会が外国勢力からの独立というスローガンがまず入り込みました。次に第二の段階で、勉強会が開かれ、「帝国主義」の告発が始まります。第三は、闘争です。信徒を司牧者と対立させます。最後は教会の「浄化」で、信徒を敵に作り上げて告発させます。外国人司祭は国外追放。外見はそのままですが、内容は全く変わってしまいます。こうして中国天主教愛国会 (Chinese Patriotic Catholic Association)になりました。
日本におけるカトリック教会は、人間の霊魂の永遠の救いというよりは、環境問題、世界の経済格差問題、貧富の格差問題、男女差別問題、反植民地主義、反帝国主義、グローバリゼーションの問題、原発問題などなどの弁証法に誘惑されているように思えます。
秋田の聖母は「悪魔の働き」について話されました。荒れ野での誘惑のように、悪魔はキリストの神秘体に働きかける、と。
「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルは、カルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」(1973年10月13日 秋田の聖母の言葉)
では、私たちはどうすれば良いでしょうか?
秋田の聖母はこう言います。
「毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」
「祈りと償いの業に励まねばならないこと(…)熱心に祈ること」
「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」
巡礼において、聖母と共に、祈りと償いの業を行いましょう。
イエズス・キリストの御旨を全て果たしておられる無原罪の聖母にますます一致して、聖母に寄りすがりましょう。
2019年4月1日
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
秋田巡礼をなさる愛する兄弟姉妹の皆様、、
カトリック教会は、四旬節を通して、私たちがキリスト教の核心である真実の人間観を黙想させます。人間とは何なのか、何のためにこの地上に生きているのか、人間の究極的な価値とは何なのか、を。四旬節を良く過ごすことによって、キリストの花嫁である教会は、私たちが超自然の天主へと心を上げること、被造物への愛着を離脱して創造主である天主へと立ち戻らせようとします。
私たちの究極の目的は、永遠の天主の命に至ることです。天主は私たちを愛し、愛するが故に私たちを創造され、私たちは溢れるばかりの愛を受けています。全人類は、男も女も、裕福な者も貧しい者も、どの言語であれ、どの民族であれ、すべて天主によって愛されて創られました。私たちを天国に導くために、天主の御独り子は人間となり、苦しみ給い、復活されました。私たちは全て、道、真理、命であるイエズス・キリストに導かれています。
キリスト教は、私たちが天主の愛を知るのみならず、天主を愛することを教えます。被造物への無秩序な愛着を離れて、天主を志向すること、言い換えると、被造物を究極の目的として求めるのではなく、天主を究極の目的として被造物はそれに至る手段として使うことを教えています。
聖パウロはエフェゾ人への手紙の中で書いています。
「天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。それは、愛する子によって、私たちに無償でさずけられた恩寵の光栄のほまれのため(in laudem gloriae gratiae suae)であった。(…)天主は、そのみ旨の奥義をお知らせになった、あらかじめ天主が、キリストにおいて立てておられた慈悲深いご計画を。それは、時がみちれば実現されるものであり、天にあるもの、地にあるもの、すべてを、唯一の頭であるキリストのもとに集める(instaurare omnia in Christo)という奥義であった。」
私たちの主の40日の祈りと断食は、肢体である私たちも頭である主に倣うように招いています。何故なら、私たちはただ単に石ころのようにあるだけ、存在しているだけの物体ではないからです。人間は、植物のようにただ生きているだけでも、野生の動物のように寝て食べるだけでもありません。人間は物質を超えて、超自然の秩序に参与するように創られています。目に見える世界を超えて、祈りの世界に招かれています。
四旬節は、人間が何であるかを思い出させてくれます。私たちがイエズス・キリストに行くことを促してくれます。
ところで、イエズス・キリストの40日の荒野での祈りと断食のあと、悪魔が試みたように、悪魔は全てをキリストのもとに集めるという天主の計画に妨害を入れてきます。
悪魔はアダムとエワの時から同じやり方を使います。一言で言えば、天主への反乱です。
私たちの主も、荒野で天主の御旨に反して石をパンに変えて食べるようにと試みを受けました。現代も、サタンは、私たちが天主を忘れて、この世の世界の建設のためだけに、野獣のように食べて快楽を求めるだけの存在だけだと思い込ませようとしています。人間は単なる原子の集まりで、進化して偶然に出来た、物質的で機械的な存在にすぎず、ただ食べて労働するだけの存在だと信じ込ませようとしています。(アダムとエワも、天主の御旨に反して食べるように誘惑を受けました。)このような間違った考え方を唯物論と言います。いいえ、人間は単なる物質ではありません。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出る総てのことばによって生きる」のです。
さらに悪魔は、イエズスを聖なる都につれて行き、神殿の頂上に立たせて、「あなたが天主の子なら、下に身を投げなさい。"天主は、あなたのためにその天使たちに命じ、天使たちは、あなたの足が石に打ちあたらないように、手で支えるだろう"と書かれているのだから」と言い、自分がやることは何でも成功すると思い込ませようとしました。現代では、悪魔は、既存の「腐敗した」社会制度を破壊さえすれば、全ては自動的に、より良い世界が到来する、と思い込ませようとしているようです。破壊的で無謀な行為をするなら、自然に良い社会がやって来る、と。
ベネディクト十六世は共産主義が同じ誘惑をしていると指摘しています。「彼(=マルクス)は、単純に、支配階級の財産を没収し、統治勢力の没落と生産手段の社会化で、新しいエルサレムが実現されることを考えた。その後、実際、全ての矛盾が解決され、人間と世界は、最終的に浄化されると見たからだ。この後、全てのことは自ずから正しい道を歩み始めることになる、と。何故なら全ての財貨は全ての人々に帰属され、全ての人々は互いに最善のことを望むようになるからだ。」(Spes Salvi, 21)
つまり共産主義は、悪魔のように嘘の約束をします。下に身を投げなさい。社会を下方に打ち投げなさい。革命により、既存の価値と秩序を破壊すれさえすれば良い、既存の政治勢力を破壊し、富める者の財産を奪って貧しい者に分配すれさえすれば、美しい善人のみが住む世界がやって来る、天主の御国が建設される、地上の楽園、人間の幸せな王国がやって来る、終わりのないユートピアの世界が来る、と。(アダムとエワも、天主の御旨に反しても成功すると思い込ませる罠がかけられました。)
最後に、悪魔は、また、私たちの主を、非常に高い山につれていき、世のすべての国とその栄華とを見せ、「あなたが、ひれ伏して私を礼拝するなら、これらをみなあなたに与えよう」と言います。悪魔は空しい約束をして、サタンの言葉を信じて、サタンを礼拝するなら、全ての権力と富を与えよう、と。現代でも、サタンの言葉を信じるなら、人間の幸せな楽園がこの地上に到来する、と約束しているようです。
私たちの主はこう教えています。「あなたたちは、はいならはい、いいえならいいえ、とだけいえ。それ以上のことは、悪魔から出る」と。しかし、サタンによれば「はい」は「いいえ」であり、「いいえ」と「はい」は同じです。サタンは弁証法を説くかのようです。「"はい"は、"いいえ"という矛盾に対立したのち、止揚して高次の段階に運動する。"はい"を"はい"と認めることを拒み、"はい"を破壊し、止揚させなければならない。」
(アダムとエワも、天主の言葉を疑い、天主に逆らえば、人間は天主のようになると、そそのかされました。)
ファチマの聖母が1917年7月13日におっしゃった預言を思い出します。「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」
1917年に聖母がおっしゃった、世界中に広がる「ロシアの誤謬」とは、何でしょうか?多くのファチマの専門家たちは、それはボルシェビキ革命思想であり、共産主義である、と主張します。
では革命思想や共産主義の核心は何でしょうか? それは根本的にどういうものなのでしょうか? まず、人間とは何かという人間観において、カトリックと共産主義とは根本的に対立しています。
1)唯物論
カトリック信仰は私たちにこれを教えています。人間が天主から愛されて創られたこと。人間の究極の目的は、最高の善である天主を知り、愛し、所有すること。人間のもっとも高貴な能力である理性(知性と意志)を使い、天主からの超自然の恵みの助けを得て、最も高貴な対象である天主(最高の真理、最高の全、最高の美)を観想し・感嘆し・幸福であること。私たちの至福は、私たちが永遠の昔から天主の愛を受け続け、愛されていることを深く理解し、その愛の中に浸り、天主を愛し返すことにあること。私たちにとっての本当に価値のあるものは、この世を超越する目に見えないところにあること。人間の本当の価値は、人間を超えるもとと一致して完成すること。
共産主義は、人間を単なる物質としてのみとらえます。この世の目に見える世界のみが実在して、この世を超越する世界を否定します。人間も、単なる動物だ、単なる機械と変わらないとします。
キリスト教によれば、天主によって全被造物は位階秩序の内に創られたと教えます。鉱物、植物、人間以外の動物、人間、そして天使らです。全世界の究極はキリストです。人間となった天主御自身です。聖パウロがエフェゾ人への手紙において言うとおりです。それが天主が「キリストにおいて立てておられた慈悲深いご計画」です。
「天にあるもの、地にあるもの、すべてを、唯一の頭であるキリストのもとに集める」ことです。「イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といいあらわすため」です。(テイヤール・ド・シャルダンの主張するようなオメガ天としてのキリストへの被造物の進化ではありません。)
共産主義によれば、世界は物質のみから成り立っており、全ては原子の集まりで、全ては、物質主義的に説明が付く、検証が可能な実証主義的世界だ、自然科学で全てが説明が付く、全宇宙の秘密は全て物質によって説明される、と言います。
カトリック神学によれば、人間として「ある」ということは次の観点から考察されます。「ある」にはいわば厚みがあり、最高のあり方とは天主が「ある」(ましまし給う)その永遠・無限・全善・完全な「あり」方です。天主の「ある」に被造物は参与していますが、被造物のあり方には制限・限界があります。
(1) まず、人間が存在しているという観点。
(2) 次に、人間が生活し(植物的存在)、快楽を要求する感覚を持った動物であるという観点。
(3) 更に、人間が理性を持ち人間であるということ、徳と善とを追求するという観点。
(4) 最後に、人間が超自然の天主の聖寵によって、天主と共に永遠の天主の命のまどいに参与するように招かれているという観点。
人間が作り上げる社会も、この観点から考察されます。
(1a) 人間社会が存在しているという観点。これに人間の機械的労働が対応する。
(2a) 人間社会が快楽を追求するという観点。物質の流通や経済がこれに対応する。(3a) 人間社会が善徳を追求するという観点。共通善を追求する国家統治がこれに対応する。
(4a) 人間社会が究極の善である天主を追求するという観点。真の宗教がこれに対応する。
しかし、共産主義はこのような秩序を拒否します。人間は単なる物質にすぎなく、存在しているにすぎないと主張するからです。共産主義によると、人間は「天主から愛されている子供」でもなければ、徳と善を追求する存在としての人間でもなければ、単なる物質です。労働する機械です。工場の中に組み込まれた歯車の一つです。
共産主義によると、人間の最高の価値は物質的生産を行う労働であり、人間が労働の実り(その成果)を享受するか否かにかかわらず、目的もない労働そのものだけが価値を持つと言います。
共産主義の主張によると、人間とは、奴隷のように労働すること、ただ単に働く奴隷なのです。人間の歴史は、原始時代から現代に至るまで、生産手段が一体誰に属するかという事実によって規定されている、と言います。経済発展の歴史とは、生産手段を誰が持つかの歴史だ、とするのです。社会発展の歴史は、この意味での「経済発展」の歴史だと。
2)唯物論的弁証法
共産主義の第2の重要な要素は、物質主義の他に、へーゲルという人が作った「弁証法」です。彼は、「大論理学」と言われている本の中で最初に説明しています。それによると、「ある」とは、薄っぺらいもので、いわば材料のように規定されておらず、「無い」と同じである。「ある」ということにも「人間としてある」も「石ころとしてある」も「あり方」の厚みがあることを認めようとせず、すべて石ころのようにただ「ある」だけのみの意味しか理解しようとしませんでした。
弁証法は、この「有る」と「無い」が同一であるという主張の上に成り立ちます。つまり、矛盾律を否定するところに成立します。同じ観点から同時に「純粋な有る」は「純粋な無い」と同じであり、しかしそれと同時に絶対的に異なる、と主張します。この矛盾から何かが「成る」「動く」と。
カトリックによれば、人間は、真理を知り、愛の命を生きることによって完成されます。最高に完成された、無限に善である、変わることのない安定した真理そのものである天主の「ある」と愛の一致です。しかしこれを否定する弁証法は、真理の反対、安定の破壊、善の破壊、命の破壊へと向かいます。つまり、虚偽と、憎悪と、死です。
そこで弁証法は次のように主張します。今一つの命題があるとすると、それに対する反対の命題があります。たとえば、「Aである」という命題があるとすると、それに反対して「Aでない」とする命題があります。第二の命題は第一の命題を否定します。ヘーゲルは、この第一と第二の命題が対立し、時が経つと、両者を含み且つ超越する第三の高次的の立場に解消する、と主張しました。第一と第二の命題の対立が発展して、第三のものに「止揚される」(アウフヘーベン aufheben される)と言いました。
ヘーゲルによると、肯定は、否定を要請し、肯定と否定との対立は、否定の否定を要請します。否定の否定とは、肯定を止揚する(aufheben)ことで、新しい肯定となって、更なる否定を自然と生み出し云々、終わりなき運動を続けると主張しました。ヘーゲルは論理学の中で「矛盾は全ての運動の根源である」と言っています。つまり「闘争」(運動)しつづけ無ければならないのです。
(肯定と否定との間にある関係は「疎外」(ドイツ語 Entäusserung 英語 alianation)と言われます。これは肯定が否定されて自分が自分でなくなること、自分が自分に対してよそ者のようになることを意味し「疎外」と言います。この疎外の中には、苦しむという概念を含んでいます。ヘーゲルの使った単語「疎外」 Entäusserung とは、"hat sich selbst geäussert" という表現の名詞形です。この表現は、聖パウロのフィリッピ人への手紙のなかの「自分自身を無とした」をルターが訳した時に使った表現でした。共産主義は、カトリック神学の歪曲であるとも言えます。)
共産主義によれば、歴史の発展のためには「闘争」「否定」「破壊」がなければなりません。そこで闘争と不和と憎しみの種を作り出して蒔きます。たとえば「帝国主義」と「反帝国主義」、「階級闘争」、などです。
しかし人間は闘争のために生まれてきたわけでも、労働だけのために生まれてきたわけでもありません。社会や民族の第一の目的は経済発展ではありません。闘争や破壊は、人間を不幸にさせるだけです。
私たちの主イエズス・キリストも、ローマ帝国のユダヤ支配に対して反旗を振りかざして独立運動をしたこともなければローマ軍駐屯反対をしたこともありません。奴隷制度廃止運動も、死刑制度反対も、差別反対運動も、なさいませんでした。イエズス・キリストが教えたことは、天主が最後の審判者であること、復讐は天主の業であること、私たちの霊魂を地獄に落とすことが出来る天主を畏れること、自分が赦されるために隣人を赦すことでした。
共産主義は、憎しみと分裂と闘争と対立を故意に引き起こさせようとします。
中世の国において、カトリック信仰により、人々は天主へと心を上げて、あたかも天主の家に住んでいました。しかし、ルネッサンスの国において、人々の心は天主を離れて人間中心になったとすると、またブルジョワの国において人々は快楽と官能の満足を追求したとすると、共産主義の世界においては、人間の究極の目的は、革命と闘争を通して、共産主義世界を建設することである、ついには共産主義社会という巨大な工場で働くことである、となることでしょう。
そこで共産主義が権力を取ると、人間は、宗教も、政治も否定され、単なる労働する機械としてのみ存在することになります。しかし人間を労働にかき立てるのは、天主への愛でもなければ、善を望む心でもなく、恐怖と監視によらざるをえません。
ところで、教会の内部でさえ、たとえ「共産主義」という名前は付いていなかったとしても、「正義と平和」の名前のもとで、「人権」と「民主主義」の名のもとで、教会の中にでさえ、悪魔の働きが入り込んでいます。
François Dufay 神父著 En Chine: L'étoile contre la croix (Nazareth-Press, 1952)によると、一歩一歩の段階を経て、中国におけるカトリック教会内部にまで浸透したことが報告されています。それと同じ手段が日本でも取られているかのようです。つまり「弁証法」です。中国では毛沢東は弁証法の理論家であり実践家でした。共産主義は、究極的には国家や祖国という概念を廃止し、インターナショナルな政治組織を作ることを目標に据えていますが、毛沢東は、共産主義を浸透させるために、戦略的に「愛国心」や「民族主義」や「ナショナリズム」を利用しました。共産主義の政治を全て飲み込ませるためでした。
中国では第一段階で、「民族主義」「ナショナリズム」の弁証法が導入されました。宗教の独立と、カトリック教会が外国勢力からの独立というスローガンがまず入り込みました。次に第二の段階で、勉強会が開かれ、「帝国主義」の告発が始まります。第三は、闘争です。信徒を司牧者と対立させます。最後は教会の「浄化」で、信徒を敵に作り上げて告発させます。外国人司祭は国外追放。外見はそのままですが、内容は全く変わってしまいます。こうして中国天主教愛国会 (Chinese Patriotic Catholic Association)になりました。
日本におけるカトリック教会は、人間の霊魂の永遠の救いというよりは、環境問題、世界の経済格差問題、貧富の格差問題、男女差別問題、反植民地主義、反帝国主義、グローバリゼーションの問題、原発問題などなどの弁証法に誘惑されているように思えます。
秋田の聖母は「悪魔の働き」について話されました。荒れ野での誘惑のように、悪魔はキリストの神秘体に働きかける、と。
「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルは、カルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」(1973年10月13日 秋田の聖母の言葉)
では、私たちはどうすれば良いでしょうか?
秋田の聖母はこう言います。
「毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」
「祈りと償いの業に励まねばならないこと(…)熱心に祈ること」
「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」
巡礼において、聖母と共に、祈りと償いの業を行いましょう。
イエズス・キリストの御旨を全て果たしておられる無原罪の聖母にますます一致して、聖母に寄りすがりましょう。
2019年4月1日
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)