「写真紀行 天狗党追録」に載っていた「潮来勢」の部分を抜書きしてみました。
ほとんどの戦いを、別働隊ではありながら、ほぼ筑波勢と同じような行動を取っているようです。
潮来勢
1.「筑波挙兵」に参加
一番初めに潮来勢の名前が出て来るのは、「筑波挙兵」の時。
『出立のはじめは六十余人だったのが、途中で小川勢、潮来勢からの参加者があり』・・とあります。
もともと「筑波挙兵」は、藤田小四郎が、前年の文久3年(1863年)3月、藩主徳川慶篤に従って上洛した時に、長州の桂小五郎、久坂玄瑞等と交わり、東西連携しての攘夷実現を、と密約したのが始まりです。
小四郎が京から戻り、同士達と密談を交わしたのも潮来の遊郭。
「八月十八日の政変」で長州勢力が一掃されたのを受け、筑波山で挙兵しようとする密計を武田耕雲斎に伝えると、「時期尚早なり」と戒められたと言います。
しかし、時すでに各地の郷校で激派が屯集、なかでも、小川・潮来・玉造・湊などの郷校では千数百人もが集まり、気勢を上げていました。
2.「那珂湊の戦い」
『潮来勢の林五郎三郎は鮎沢伊大夫の急報により須藤敬之進、小林幸八、畑筑山らの諸隊とともに小川を出発し神勢館救援に向かったが、途中農兵に遮られ、間に合わなかった』
『・・林五郎三郎の潮来勢も平磯へ来援した。』
この辺りが9月1日の事でしょう。そしてすぐさま
『平磯にあった藤田小四郎、飯田軍蔵、須藤敬之進、三橋半六らの筑波勢と林五郎三郎、井田平三郎、朝倉源太郎らの潮来勢は、こうした戦況から「座して敵を待つべきではない』と要害の地を占拠して敵を牽制するため、千三百人ほどの軍勢をもって北進した』
「こうした戦況」とは、幕府から命じられた各藩の追討軍が、天狗派を三方から取り囲むような作戦を取ろうとしていた事を指しています。
この筑波勢・潮来勢は『大軍にひるむことなく果敢に進軍し』各地で勝利を収めました。
その後。
9月10日 筑波勢は平磯へ帰陣、潮来勢は対岸の祝町に陣を張る。
9月17日 幕府軍が大挙して磯浜へ襲撃。
潮来勢大いに奮戦。
9月18.19日 林五郎三郎 戦死。33歳。
潮来勢、弔い合戦と称して果敢に敵を攻め立てる。
幕軍、諸藩軍 敗走。
9月21日 潮来勢 大貫の幕軍を襲い破る。
9月22日 幕府の大軍が攻め寄せ、磯浜の各地より火の手が上がる。
潮来勢は祝町に後退、陣を移す。
夜、潮来勢は祝町に放火して湊へ引き取る。
*代官佐々井半十郎の手代・田中之介が砲戦中に単身白扇を振りながら進み、井田好徳の陣に投じたのはこの日。
頼徳に面談したいとのことで、那珂湊へ護送。
9月26日 松平頼徳 湊を出て長福寺へ。
10月5日 松平頼徳 切腹。
10月10日 部田野原にて。
幕軍が那珂湊総攻撃。
(市川勢・鯉渕勢・福島・壬生・二本松諸藩・幕軍。13000名余)
筑波勢が迎え撃つ。
潮来勢が来援。本営より大発勢。天狗派の勝利。
10月17日 幕軍 部田野原に進軍。
稲荷山方面、館山、六軒家付近に砲列を敷き攻撃。
筑波勢・武田勢他、各方面より襲撃。天狗派の勝利。
10月18日 幕軍 部田野原に進軍。
筑波勢・潮来勢・大発勢。天狗派の勝利。
こんな中、大発勢が幕府方に降伏するとは・・。
次は大子から。天狗派は結集し「西」を目指します。
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