杉田の牛頭山・妙法寺といえば梅林が有名であるが、ほかにも隠れたレトロ物件が二つある。一つは飛鳥田孋無公(元横浜市長・飛鳥田一雄の叔父)の句碑。これについては以前の記事で紹介した。
もう一つは鮭塚跡である。
妙法寺門前。推定樹齢約600年と言われているビャクシンの老木。
かながわの名木100選にも入っている。
これを取り囲むように玉垣が建てられているのだが、この2本だけ他のものとは大きさが違う。とくに左側の方は大きい。しかも2本とも奉納した組織の名前が彫られているのだ。
大きい方が「越前屋呉服店」。関東大震災で倒壊してしまったが、それまでは伊勢佐木町にあった大店だ。
右側に建っているのは「横濱鹽魚商組合」のもの。なぜ、ここに塩魚商の玉垣があるのか。不思議に思っていたので、妙法寺のご住職に聞いてみた。
かつては、この辺まで海が迫っていたそうだ。魚の荷降ろしには都合のいい浜だったという。
そこで、塩干しした魚を扱う組合が魚を供養するため、大きな碑を建立したのであるが、その塩魚の代表格として鮭が選ばれ鮭塚ができたらしい。
ということで、埼玉大学の「今昔マップ」で調べてみた。左は1896~1909年頃の地図。赤丸で囲んだ部分に小さな船だまりのような凹みが描かれている。おそらくここが当時の漁港だったのだろう。右は現代の地図。
今昔マップの詳細はコチラから。←クリック
これは昭和56年発行の「ヨコハマウォーキング」(横浜市広報課)に掲載されている杉田周辺の地図。
そこに「さけ塚跡」という文字が書き込まれている。記事を書くために取材した人は、ここに鮭塚があったことをご存じだったようである。
現在残っている玉垣のなかに鮭塚があったのだろう。
妙法寺の奥様に聞くと、大きな塚だったようであるが、ずいぶん前に何処かへ移設されていたという。
いったいどこへ……。
それは思わぬところで発見された。
磯子町4丁目にある「金蔵院」。ここにあった。
魚類を扱う会社の名前が彫られた玉垣。みなさん横浜中央卸売市場で商売をしている方々だ。
「横浜丸魚」、「八清」、「八虎」などの名前が見られる。
「横浜魚類」 「元熊」 なども見える。
この周辺はどうも魚関係の場所のようだ。
そう、まさに、ここに鮭塚があるのだった!!
手前の小さな碑には、鮭塚をここへ移転した由来がこう書かれている。
魚塚(鮭塚)の由来
この題字は当時の市長有吉忠一氏の揮毫によるもので、昭和三年塩干同業組合が牛頭山妙法寺の中央小島に建立し、爾来五十年の永きに亘り業界発展の願いを込めて毎年、十一月十一日に供養を続けて来た
大戦後は中央市場水産部自治会が此の碑の維持管理に当たって来たが、此の度建立五十周年を期し当海向山金蔵院の境内に移転改修をすることとした
爾今は魚類全般の象徴として子々孫々魚介類の供養を行い水産関係者の繁栄を祈願する
昭和五十三年十一月
横浜市中央卸売市場
本場水産部自治会
南部水産部自治会
巨大な石碑左側にある大きめの記念碑には、この鮭塚を建立した方々の名前が彫られている。
ここまで調べてきたのだが、念のためインターネットで鮭塚を検索してみると、すでに碑文をすべて記録している方がおられた。
これはありがたい♪
やはり昭和3年11月に鮭塚と鮭塚建設寄付者芳名碑を建てたのは「横濱鹽魚商組合」だったのである。
ところで「鮭」という漢字は「魚へん」に「土」「土」と書く。土が二つで十一月十一日が記念日だそうだ。
もう一つオマケ情報を。
お花塚が建っている。昭和53年に横浜華道協会が建立したものである。
鮭塚と同じ年だ。この年になにかあったのだろうかね。
【2018年6月9日の記事】
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