Sport is never pure and rarely simple
英タイムズ紙の2008北京オリンピック聖火リレーの混乱に関して、フローラン・ダバディ氏が深く共感したといってたのでのぞいてみた
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中国はいままでは知らなかったとしても今はそれを知っているはずだ。もう自分だけの言い分だけではオリンピックは成り立たない。
オリンピックの聖火リレーはショーケースではあるが、それは中国の国威を見せるためのものではない。しかし今はむしろプロ・チベット活動家のデモンストレーションの、あるいは寛容社会の手のつけられない荒れ狂った混沌のショーケースと化している。
多くのプロ・チベット活動家は中国に開催権を与えたことは間違いだったと言っている。しかし一方ではチベット問題と中国の人権問題について世界に人々に問いかける、いまだかつてない機会となったではないか。
平和のデモンストレーションがロンドンで行われたが一方で3ダース以上の人が(国家への罪ではないというところに注目)公序良俗違反で逮捕されたが、そのことはチベット問題を際だたせる結果となった。
その中心にあるのはマッチかライターさえあれば誰でも点けることのできる炎だ。だがそれは多くの意味を持つシンボルとなりうるものだ。
その炎はまずはオリンピックのシンボルだ。それは最も大きなスポーツイベントの、人間愛の祭典の、そして最大の歴史イベントを象徴するシンボルなのである。
さらには平和、世界規模の兄弟愛、永遠の善などの意味まで託されるようになるのだ。
聖火リレーは歴史的にみても政治家にとって、或いは近年においては巨大コマーシャリズムにとっても魅力的なものであり続けてきたが、聖火は本来はそれ自体が国から国へと受け継がれいくものであり、わたしたちひとりひとりのものなのだ。
4年後にロンドンでオリンピックが開催される際には、例えその時まだ英国軍がイラクに駐留していようとも聖火は灯されるだろう。
聖火は娯楽やゲームや平和や愛以上の意味持っているのだ。そして今は中国の国威や野心、権力をも表してしまっている。だからロンドンでは警察官の護衛なしには聖火はパレードできないのだ。その光景は人々に中国を連想させてしまう。中国のアスリートではなく中国という国家を。
中国はオリンピックは純粋なスポーツだといっているが、スポーツは純粋でも単純でもないものだ。もし中国がこれを理解しないでいるならば、中国はさらなる混乱で学ばなければならないだろう。
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以上
ダバディ氏はイラクの駐留英国軍のくだりで西欧諸国も同罪だといってるところがフェアな見方だとか言ってた気がするけど、なんだかよくわかんねーや。
自分で紹介しといてこんなことをいうのもなんだけど、日本語としておかいときは誤訳の可能性を疑え…ってよくいうから、興味ある人は上の英語見だしクリックでリンクを辿って直接原文にアクセスしてください(笑)。(いつも紹介しているメジャーリーグの記事と違ってこむずかしくってよぐわがんねがったス)
とりあえず聖火リレーへの妨害活動を見てると日本の捕鯨反対の過激な活動を思い出す。理由や目的はどうあれ暴力はいかんよ。聖火ランナーの怯えた顔を見るとやっぱりあの“実力で阻止”のスタイルは暴力の一種だと思うよ。
とりあえずはプラカードでも掲げてカメラの画角に収まって併走するぐらいにとどめておかないと。それでも排除はされるんだろうけど聖火に直接アクセスしようとするのと比べれば世間の共感も呼ぶだろう。
最近、元シンクロ日本代表の武田美保氏が北京の騒動について、
「五輪というのはその期間は戦争を一時的に中断するくらいのものであると思うし、選手も4年間それをめざして頑張ってるのだからとりあえず騒ぎは中断してほしい」
みたいなことを言っていたのを聞くにつけ、つくづく日本のアスリートというのは自分勝手でアホだなぁと思った。
今の時点で考えればなんでもかんでもボイコットすればいいってもんではないとは思うんだけど、でも彼女の言い草だと
「とりあえず殴り合いはオリンピック終わってから勝手にやってね」
と聞こえる。
「こんな中で私たちにできることは何だろう?」という努力のかけらも感じられない思考停止した筋肉の塊に見える。
よくオリンピックと政治は無関係だというタテマエがあるけれど、ほんとうに無関係だったら中国もあんなに一生懸命やるはずもない。
「日本がここで何も発言しないのは人権問題に鈍感だという印象を与えかねない」などとコメンテーターが力説しているニュース番組にも違和感がある
だってCMになったら
「大画面で北京を見よう」
なんておねーちゃんがニッコリ笑ってるんだから
オリンピック代表候補選手とかをスタジオに招いたりするスポーツコーナーでチベット問題についてコメントを求めることもない。
そういうのは“無粋”だという日本の美学だろうか?
結局のところ世界は経済の人質になってしまっているのだ。開会式だけ欠席したところで決定的な打撃にはならない。中国なしに世界はまわっていかないことを知っているから。
人権問題なんて開催を決める前からわかっていたことだ。それでも北京が選ばれたことこそ世界が経済の人質になってしまっていることの証。
結局、全世界が同じ穴のムジナなんだよ。
まぁ、そういう理屈でいえばスポーツ選手だけを責めらることはできないんだろうけど、自分が注目を浴び、世の中に影響を与えるような選ばれた存在だと気づいたときに、自分はひょっとして何か大きなよからぬものに荷担してはいないだろうか?という恐怖心はわいてこないのだろうか?…って思ってしまうのだ。
911テロで死んだ人の数はいまだ生々しく繰り返されるけど、アフガンやイラクで死んだ民間人の数に世間の注目の外だったりする。同じようにミュンヘンの悲劇は世間の記憶に残っていてもこのまま北京オリンピックが成功裏でフィナーレを迎えれば世間はまたチベットのことなんて忘れてしまうんじゃないだろうかって気もする。
中国に五輪開催権を与えたことでチベット問題を世界に提起する機会となったというタイムズ紙の論調は一理あるけど、果たしてこの好機とやらに出口はあるのだろうか?
英タイムズ紙の2008北京オリンピック聖火リレーの混乱に関して、フローラン・ダバディ氏が深く共感したといってたのでのぞいてみた
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中国はいままでは知らなかったとしても今はそれを知っているはずだ。もう自分だけの言い分だけではオリンピックは成り立たない。
オリンピックの聖火リレーはショーケースではあるが、それは中国の国威を見せるためのものではない。しかし今はむしろプロ・チベット活動家のデモンストレーションの、あるいは寛容社会の手のつけられない荒れ狂った混沌のショーケースと化している。
多くのプロ・チベット活動家は中国に開催権を与えたことは間違いだったと言っている。しかし一方ではチベット問題と中国の人権問題について世界に人々に問いかける、いまだかつてない機会となったではないか。
平和のデモンストレーションがロンドンで行われたが一方で3ダース以上の人が(国家への罪ではないというところに注目)公序良俗違反で逮捕されたが、そのことはチベット問題を際だたせる結果となった。
その中心にあるのはマッチかライターさえあれば誰でも点けることのできる炎だ。だがそれは多くの意味を持つシンボルとなりうるものだ。
その炎はまずはオリンピックのシンボルだ。それは最も大きなスポーツイベントの、人間愛の祭典の、そして最大の歴史イベントを象徴するシンボルなのである。
さらには平和、世界規模の兄弟愛、永遠の善などの意味まで託されるようになるのだ。
聖火リレーは歴史的にみても政治家にとって、或いは近年においては巨大コマーシャリズムにとっても魅力的なものであり続けてきたが、聖火は本来はそれ自体が国から国へと受け継がれいくものであり、わたしたちひとりひとりのものなのだ。
4年後にロンドンでオリンピックが開催される際には、例えその時まだ英国軍がイラクに駐留していようとも聖火は灯されるだろう。
聖火は娯楽やゲームや平和や愛以上の意味持っているのだ。そして今は中国の国威や野心、権力をも表してしまっている。だからロンドンでは警察官の護衛なしには聖火はパレードできないのだ。その光景は人々に中国を連想させてしまう。中国のアスリートではなく中国という国家を。
中国はオリンピックは純粋なスポーツだといっているが、スポーツは純粋でも単純でもないものだ。もし中国がこれを理解しないでいるならば、中国はさらなる混乱で学ばなければならないだろう。
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以上
ダバディ氏はイラクの駐留英国軍のくだりで西欧諸国も同罪だといってるところがフェアな見方だとか言ってた気がするけど、なんだかよくわかんねーや。
自分で紹介しといてこんなことをいうのもなんだけど、日本語としておかいときは誤訳の可能性を疑え…ってよくいうから、興味ある人は上の英語見だしクリックでリンクを辿って直接原文にアクセスしてください(笑)。(いつも紹介しているメジャーリーグの記事と違ってこむずかしくってよぐわがんねがったス)
とりあえず聖火リレーへの妨害活動を見てると日本の捕鯨反対の過激な活動を思い出す。理由や目的はどうあれ暴力はいかんよ。聖火ランナーの怯えた顔を見るとやっぱりあの“実力で阻止”のスタイルは暴力の一種だと思うよ。
とりあえずはプラカードでも掲げてカメラの画角に収まって併走するぐらいにとどめておかないと。それでも排除はされるんだろうけど聖火に直接アクセスしようとするのと比べれば世間の共感も呼ぶだろう。
最近、元シンクロ日本代表の武田美保氏が北京の騒動について、
「五輪というのはその期間は戦争を一時的に中断するくらいのものであると思うし、選手も4年間それをめざして頑張ってるのだからとりあえず騒ぎは中断してほしい」
みたいなことを言っていたのを聞くにつけ、つくづく日本のアスリートというのは自分勝手でアホだなぁと思った。
今の時点で考えればなんでもかんでもボイコットすればいいってもんではないとは思うんだけど、でも彼女の言い草だと
「とりあえず殴り合いはオリンピック終わってから勝手にやってね」
と聞こえる。
「こんな中で私たちにできることは何だろう?」という努力のかけらも感じられない思考停止した筋肉の塊に見える。
よくオリンピックと政治は無関係だというタテマエがあるけれど、ほんとうに無関係だったら中国もあんなに一生懸命やるはずもない。
「日本がここで何も発言しないのは人権問題に鈍感だという印象を与えかねない」などとコメンテーターが力説しているニュース番組にも違和感がある
だってCMになったら
「大画面で北京を見よう」
なんておねーちゃんがニッコリ笑ってるんだから
オリンピック代表候補選手とかをスタジオに招いたりするスポーツコーナーでチベット問題についてコメントを求めることもない。
そういうのは“無粋”だという日本の美学だろうか?
結局のところ世界は経済の人質になってしまっているのだ。開会式だけ欠席したところで決定的な打撃にはならない。中国なしに世界はまわっていかないことを知っているから。
人権問題なんて開催を決める前からわかっていたことだ。それでも北京が選ばれたことこそ世界が経済の人質になってしまっていることの証。
結局、全世界が同じ穴のムジナなんだよ。
まぁ、そういう理屈でいえばスポーツ選手だけを責めらることはできないんだろうけど、自分が注目を浴び、世の中に影響を与えるような選ばれた存在だと気づいたときに、自分はひょっとして何か大きなよからぬものに荷担してはいないだろうか?という恐怖心はわいてこないのだろうか?…って思ってしまうのだ。
911テロで死んだ人の数はいまだ生々しく繰り返されるけど、アフガンやイラクで死んだ民間人の数に世間の注目の外だったりする。同じようにミュンヘンの悲劇は世間の記憶に残っていてもこのまま北京オリンピックが成功裏でフィナーレを迎えれば世間はまたチベットのことなんて忘れてしまうんじゃないだろうかって気もする。
中国に五輪開催権を与えたことでチベット問題を世界に提起する機会となったというタイムズ紙の論調は一理あるけど、果たしてこの好機とやらに出口はあるのだろうか?
この前聞きましたが、だんなが選挙に出る
らしく、政治家きどりみたいでヘンでした。
公的な発言と自分が選手という立場の選民
思考で自己感想の区別がつかない選手が
本当に多すぎです。
武田さんは結構アスリートではその後の
活動が華やかなほうですが、こういう何も
考えていないタレントさんになる馬鹿が
増えるのは、アスリート全体のモラルを
下げますね。五輪選手の多くが自分は
特別なんだ的選民意識を持たないキャリア
教育は必須です。
“選民意識”…これキーワードですね。
特権意識は捨てて欲しいですけど、大きな責任を負うというのだという公人意識は持ってほしいものです。
五輪選手、特にメダリストというのは、他国ではメダリストが経済的多大な恩恵を受けている…とか、プロのあるスポーツ、例えば野球選手のように高額な年俸を得られるわけではないという事実をタテに被害者意識にも似た歪んだアマチュアイズムが形成され今に至っているのでしょう。
ただ私たち一般国民の間にも「選手は4年間頑張っている」とか「政治とスポーツは無関係」というマスコミの作ったインチキな呪文が浸透しちゃっているのかもしれません。
「自分が楽しみたい」などと連呼するアスリートたちに何かを背負っているという意識などもはやないというのに…です。
でも武田さんが立候補したらきっと当選しちゃうんでしょうね。
アスリート教育も確かにそうなんですが、そういう勘違いアスリートを見過ごさないような世論が形成できるよう民衆に対する啓発も必要かもしれません。それにしてもテレビが力を持ちすぎてしまってますね。負けたヤワラちゃんが代表になったのもスポンサーの力ではないかと疑っています。