ロックを連れた四人が階下に下りると、薄暗い室内を満たすような不気味な紅い光の渦が発生していた。
それは様々な物品が置かれた棚と棚の狭間、光と言うにはまるで眩さを感じさせない、むしろ「穴」と例えた方が適切と感じられるような深さを湛えた渦…。
そのやけに質感を伴った赤い「うねり」が生物の呼吸を連想させるような動きで、大きく膨らんだかと思えばまた縮小を繰り返しているのだ。
「こ…、これは…!」
テツヤは肩の上のロックに明らかな狼狽が走ったのを感じた。事情を知らぬ四人ではあったが、その様子からただならない事態が起きていることは理解できた。
なおも不気味な鳴動を上げ続けている紅い渦の様は、隠すこともなくあからさまな禍々しさを放っているのである。この様子を見て不吉さを感じない人間の方がむしろ異常なのではないかとさえ思える。
「おい、ロック!何なんだ、こりゃあ!?」
「君たち、ここからすぐに離れるんだ!」
ロックは慌ててテツヤの肩から飛び降りると着地を待たずにふわりと宙に浮き上がる。
四人の前に進み出ると両の拳を構えて臨戦態勢をとった。
「…異常形態が、出てくる…!」
「い…異常形態?それって、さっき言っていた…!」
「たしか人間の悪い感情に染まったミゼット…ってこと?」
テツヤの肩越しにアイコらがロックを窺い見る。階段口に四人を止めたまま、ロックは慎重に紅い渦に近寄りその様子を探る。
「…何だ?一体何が触発された!?」
紅い渦の周辺にその正体を求めロックが目を凝らす。
そこに渦の奔流に隠れ、正面から見えなかった場所に転がった古い木箱が口を開いていたのを目にし、ロックの表情に緊張と戦慄の色が浮かぶ。
「な…っ!何という事だ…よりによって『悪魔の腕』だなんて…」
「どうしたんだよ、ロック。悪魔の腕って、何なんだ?」
「まだいたのか!?説明は後だ、とにかく逃げ…」
そう言いかけたロックの姿が、眼前からふいに消えた…。同時にテツヤは自分のすぐ横を何かが吹きぬけたのを認める。
少し遅れて三人のすぐ後で乾いた破砕音が響き渡った。
「ア…ぐゥッ!!」
振り返るとロックの身体が階段の手すりに叩きつけられていた。真鍮色の胸の装甲は粉々に打ち砕かれ、関節の各所から循環体液が散る。
「ぇ…?」
後方で起こった突然の光景に対する認識作業も済まないまま、ちりちりとした危険を察したテツヤは前方に目を戻す。
先刻までロックが相対していた紅い渦、そこからは黒く長く、そして硬質な紐状の物体が生えていた。
それを見てテツヤはようやく何が起こったのかを理解した。紅い渦から出現したその黒い紐が出現の瞬間にロックを襲ったのだ。
紐と言っても印象としては昆虫の触覚、あるいは刃物のようにも見受けられる。漆黒を湛えたそれは薄平べったく、だがしなやかな板バネのように光沢を放ち、そこからは尋常ならざる硬度と切れ味を嫌でも感じさせる。
そんなものが目で捉えることさえ出来ない速度で叩きつけられたのである。人間であったらまずひとたまりもない…。
「っ…!…ィ…スケ…っ…」
ロックは何ごとか聞き取れないような呻きを漏らし、ひしゃげた手すりからぼろりと落ちて床に転がり、動かなくなった。
硬直していた四人の中で最初に冷静な判断を取り戻したのはやはりアイコであった。
もたつく足でロックに駆け寄るとその身体をすくい受けて飛び退る。直後、すぐ足元でとどめとばかりに打ち下ろされた触手の一撃が小さな爆発さながらに床板を爆ぜ砕かせた。
這いつくばるように仲間の許に逃げ戻ったアイコは真っ青な顔で荒れた呼吸を静めようと努める。
数瞬遅れて回復したテツヤとギイチが彼女を後方にかくまう向こうで、紅い渦からはもう一本、鎌首をもたげる様に触手が出現していた。
「こいつは…ヤベぇ…」
ようやくテツヤの口から漏れた言葉がそれである。
三人とも何か言って状況認識なり行動決定なりを交わしたいとは感じているのだが、頭が混乱しているのと激しい緊張で喉が渇いて声が上手く出せないのとでなかなかそれも叶わないでいる。
「…なカっ…っ…」
思わず声がうわずってしまったギイチは一度自分の頬をぴしゃりと叩いて、もう一度声を絞り出す。
「何かが…あの長いやつの後ろに何かがいる…!」
「え?」
「あれって、まだその悪魔の腕って奴の一部みたいだ…多分触手か何か、感覚器官と手を兼ねたような身体の一部…」
「身体の一部って…」
既に姿を現していた、恐らくは触手と思しき物体は長さ2mを上回っている。もしもこれが自分の判断どおり身体の一部に過ぎないとしたら、実際の大きさは自分達人間と変わらぬ大きさ…あるいはもっと巨大とも推測できる。
ギイチの推測を裏付けるように、紅い渦の中から更に触手が一本そして…
「…テツヤ、ギイチ君…あれっ…!」
悲鳴に近い声でアイコが渦を指し示す。紅い渦の中心からは二本の触手に吊り上げられるかのように、本体と思しきものが出現し始めていた。
「な…!何だぇ、ありゃあ…?」
その異様な姿にテツヤは絶句する。
それは四人で一番長身のギイチよりも更にふた回り以上大きい。角の張り出した漆黒の体躯は現代彫刻のような幾何学的構造で形成され、一見しただけではどこが体でどこが手足だか判別できない。中央の構成部側面からはパンチ穴が開いたような何枚かの板状の構造が広がり、さらにそこから四本の黒い触手が生えている。
触手は周囲を探るようにもったりと漂い、それだけが妙に生物っぽく蠢いていた。
やがて現れた頭頂部(と、思しき場所)に亀裂が走り、真っ赤な三日月形のクレバスが口を…文字通り、嘲うような口を開いた。
テツヤが思わず飛び出す。すんでのところで触手をかわし、二人もつれて床に転がる。
「ギイチ、手伝え!アイコはロックを頼む!」
「うん、今行く!」
「任せて!」
テツヤはギイチと二人で腕を引き、階上に避難する。ロックを抱いたアイコがそれに続いた。
階段を駆け上がりながら後のアイコを一瞥したテツヤは少し躊躇してから彼女に声をかける。
「アイコっ、ロックは…平気か?」
「バカぁっ!平気なわけ無いでしょお!!」
ロックの身体からはまだどくどくと循環体液が溢れ出しているため、まるで血まみれになっているように見える。
その外観からあまり体温を感じさせない印象だが、それでも気のせいかだんだん身体が冷たくなってきているような気がしてアイコは堪らず大声になる。
「ちょっと待ってよ…こんなワケわかんない状況で死んじゃわないでよぉっ!!」
「…心配…ない…。大丈夫…少し機能が低下しただけだ…」
それが息を吹き返すきっかけにでもなったか、ロックが視線だけをアイコに向ける。だがどう見ても大丈夫には見えない。
「…ぐぅっ…、君たちは…?な…、何故逃げなかった?」
「逃げられるわけないでしょ!そんな血だらけになっちゃってさ!」
階段出口の木の欄干を軸に階段を駆け上がった勢いそのまま体を方向転換させたテツヤもロックの無事を確認する。
「ロック!教えろ、何なんだあのバケモノは?異常形態ってのはみんなあんななのか?」
「わからん…、『あれ』は…、あの『悪魔の腕』は…、唯のミゼット母体ではなく、特別なんだ。」
アイコの手の上で、ロックが苦しげに身を起こした。階下では『悪魔の腕』が尚も覚醒を進行させている。
「あれは、我々がこの屋敷を受け継ぐ以前からここにあったもの…。決して、目覚めさせてはならない『パンドラの箱』として厳重に箱に封印を施されていたはずなのに…」
何か…否、誰かがそのパンドラの箱を開いてしまったのだ…。
覚醒の途中だというのに悪魔の腕の触手が獲物を求めて階段を昇り追ってくる。
際限が無いかのようにどこまでも伸びてくるそれは、あたかもにおいや体温で餌を探す毒蛇のごとく、先端をゆらゆらと左右に動かしながら確実に自分達をトレースしてきているようだ。
「急げ、逃げるんだ!奴が完全に目を覚まさないうちに…!」
アイコの手の平で伏したまま、体を支えることさえもう出来ないロックが叫びを上げる。
「ミゼットの力を侮るな!戦車や戦闘機でも持ち出さない限り、人間ではミゼットに太刀打ちすることは出来ない!」
必死のロックに気圧された四人は、上階の棚を駆け抜け、さらにその先の扉に向かう。
「…あの扉の先には一直線に続く廊下がある。その廊下の突き当りに二階に直接続く階段があるからそこを上れ。上りきったら反対側にもう一つ、下に続く階段がある。それを下りれば…そこが正面玄関…だ」
アイコの薬指にもたれながらロックがよろよろと身を起こす。彼の傷は人間のそれとは異なり、石の砕け目の様に見える。その頬にまで硬質なひびが入っていることに気付いて、アイコは驚いた。
「ここまで有難う…。アイコちゃん、だったね?もうここで降ろしてくれ」
「えっ?」
「ここは私が、食い止める」
「えぇっ!?」
二人の会話が耳に入ってギイチが足を止めた。
「何言ってるんだロックさん、そんな体で…」
著しく循環体液を失ったロックの身体は神経伝達が思うようにいかず錆びついた機械のように動きが軋んでいた。
だが反面「信号」としての痛みも減っているためようやく身体を動かす機能が回復しつつある…人間はこれを「麻痺した」と呼ぶのであろうが、現状ロックにとっては都合が良い。
…そして身体が動くのであれば…為すべき事は…!
「いずれにしても私はこの屋敷を逃げ出すわけには行かない…。安心しなさい。倒せないまでもあいつは私が封じてみせる。たとえこの命を賭けてでも…」
やはりその会話が耳に入っていたのだろう。既に扉に手がかかっていたテツヤの動きが止まる。
しばし扉を凝視してたかと思うとおもむろに振り返り、つかつかとアイコに歩み寄ってきた。
「…テツヤ…?」
「テツヤ…君?」
「…逃げんの、やめた!」
瞬時には彼が何を言っているのか理解できなかったロックに一瞬間空白が生まれる。
「…な、何を…。ば、馬鹿な、君たちは逃げないか!」
「いやだね!断固拒否だ!さっきから聞いてりゃ命を賭けるとか、俺たちは逃げろとか!そんな嫌な思いをしてまで逃げるくらいなら…!」
昂る感情に身を任せたままテツヤは大きくかぶりを振った。いつもの、「恐怖に打ち勝ちたい」という感情を、意地になって絞り出す。
(…君は、どうしたい?どう、生きてゆきたい?)
刹那、声が聞こえた気がした。あるいはそれはこの超弩級の危機的状況の中で生み出された幻聴なのかもしれない、がテツヤはそれで不思議と安心感を感じることが出来た。
テツヤは手袋のストラップを引き絞ると、ヨーヨーを構えた右腕を、悪魔の腕のいる側に向けてびっ、と突き出す。
「負けねー!俺は、てってーてきにあがいてやる!」
「…何を言って…」
「…そうだね、その方が気分良いかな…!」
ロックの制止を阻むように、言葉を挟んできたギイチはジャイロプレーンのメインスイッチを入れるとプロポのステアリングに指をかけた。
更にロックを静かに下ろすとアイコもまた、カメラを構える。
「やぁ~だやだ、テツヤもギイチ君も、熱血なんだから…。なら私も目眩ましくらいは手貸したげないとね…」
三人は目配せを交わしてやがて上がって来るであろう悪魔の腕に身構えた。まるで三人の意思を酌むかのように三人の懐で髑髏のキーホルダーが揺れる…。
「…何なんだ…この子たちは…?」
およそ子供とは思えない決然たる行動…無論、理想主義的なヒロイズムに浮かされ時に暴走し状況判断を見誤るのもまた子供に多く見られる一つの心理であるのだが、こうした明白な脅威の前でそれを実践できるほどの精神的強さは普通、持ち得ないものである。
ロックは呆然と三人の子供を見上げる。…と、その手にした得物が薄ぼんやりと青白い燐光を灯し始めているのに気付いた。
「あの光は…まさか…!」
観音開きの扉を背に、前衛にテツヤ、その後方、両翼にアイコとギイチが布陣する。その三人の気配を察知してか、悪魔の腕の触手がゆっくりとにじり寄ってきた。
もう一度だけ、テツヤは手袋を引き絞ると軽く腰を落とし正眼にヨーヨーを構えた。
「さあ来やがれ!キツイの一撃カマしてやる!」
(…負けたくない…そうだ、テツヤ。意地張って征こうぜ。たとえそれがやせ我慢や悪あがきだとしても、素直に理不尽に屈してやる手はない。恐怖なんて、ねじ伏せてやろうぜ…!)
「言われるまでもねぇ!…って、…え?」
思わず『声』に答えてから、テツヤはその声の主を探す。その出どころは意外なほど近くにいた…。
(やろうぜ!君が不屈の志を持ち続ける限り、オレは君の『力』になろう…!)
テツヤが手にするヨーヨーが一際強く輝きを発し始めた。
自分のヨーヨーが輝き、語りかける。それはまるっきり現実離れした状況であったが、今テツヤはそれをごく自然に受け入れていた。理屈ではない、「そうしていいんだ」という漠然とした確信が彼の心の中に満たされてゆくのを感じたからだ。
「………よし…!行けえっ!!」
三人に向け、悪魔の腕の触手が襲いかかる。それに向けてテツヤは渾身の力を込めてヨーヨーを放った。
回転するディスクホィールの輝きは最高潮に達し、程なく光は小さな人型を形成し始めた。それを認めたロックの目の色が変わる。
「…ミゼット…だ…!」
それは様々な物品が置かれた棚と棚の狭間、光と言うにはまるで眩さを感じさせない、むしろ「穴」と例えた方が適切と感じられるような深さを湛えた渦…。
そのやけに質感を伴った赤い「うねり」が生物の呼吸を連想させるような動きで、大きく膨らんだかと思えばまた縮小を繰り返しているのだ。
「こ…、これは…!」
テツヤは肩の上のロックに明らかな狼狽が走ったのを感じた。事情を知らぬ四人ではあったが、その様子からただならない事態が起きていることは理解できた。
なおも不気味な鳴動を上げ続けている紅い渦の様は、隠すこともなくあからさまな禍々しさを放っているのである。この様子を見て不吉さを感じない人間の方がむしろ異常なのではないかとさえ思える。
「おい、ロック!何なんだ、こりゃあ!?」
「君たち、ここからすぐに離れるんだ!」
ロックは慌ててテツヤの肩から飛び降りると着地を待たずにふわりと宙に浮き上がる。
四人の前に進み出ると両の拳を構えて臨戦態勢をとった。
「…異常形態が、出てくる…!」
「い…異常形態?それって、さっき言っていた…!」
「たしか人間の悪い感情に染まったミゼット…ってこと?」
テツヤの肩越しにアイコらがロックを窺い見る。階段口に四人を止めたまま、ロックは慎重に紅い渦に近寄りその様子を探る。
「…何だ?一体何が触発された!?」
紅い渦の周辺にその正体を求めロックが目を凝らす。
そこに渦の奔流に隠れ、正面から見えなかった場所に転がった古い木箱が口を開いていたのを目にし、ロックの表情に緊張と戦慄の色が浮かぶ。
「な…っ!何という事だ…よりによって『悪魔の腕』だなんて…」
「どうしたんだよ、ロック。悪魔の腕って、何なんだ?」
「まだいたのか!?説明は後だ、とにかく逃げ…」
そう言いかけたロックの姿が、眼前からふいに消えた…。同時にテツヤは自分のすぐ横を何かが吹きぬけたのを認める。
少し遅れて三人のすぐ後で乾いた破砕音が響き渡った。
「ア…ぐゥッ!!」
振り返るとロックの身体が階段の手すりに叩きつけられていた。真鍮色の胸の装甲は粉々に打ち砕かれ、関節の各所から循環体液が散る。
「ぇ…?」
後方で起こった突然の光景に対する認識作業も済まないまま、ちりちりとした危険を察したテツヤは前方に目を戻す。
先刻までロックが相対していた紅い渦、そこからは黒く長く、そして硬質な紐状の物体が生えていた。
それを見てテツヤはようやく何が起こったのかを理解した。紅い渦から出現したその黒い紐が出現の瞬間にロックを襲ったのだ。
紐と言っても印象としては昆虫の触覚、あるいは刃物のようにも見受けられる。漆黒を湛えたそれは薄平べったく、だがしなやかな板バネのように光沢を放ち、そこからは尋常ならざる硬度と切れ味を嫌でも感じさせる。
そんなものが目で捉えることさえ出来ない速度で叩きつけられたのである。人間であったらまずひとたまりもない…。
「っ…!…ィ…スケ…っ…」
ロックは何ごとか聞き取れないような呻きを漏らし、ひしゃげた手すりからぼろりと落ちて床に転がり、動かなくなった。
硬直していた四人の中で最初に冷静な判断を取り戻したのはやはりアイコであった。
もたつく足でロックに駆け寄るとその身体をすくい受けて飛び退る。直後、すぐ足元でとどめとばかりに打ち下ろされた触手の一撃が小さな爆発さながらに床板を爆ぜ砕かせた。
這いつくばるように仲間の許に逃げ戻ったアイコは真っ青な顔で荒れた呼吸を静めようと努める。
数瞬遅れて回復したテツヤとギイチが彼女を後方にかくまう向こうで、紅い渦からはもう一本、鎌首をもたげる様に触手が出現していた。
「こいつは…ヤベぇ…」
ようやくテツヤの口から漏れた言葉がそれである。
三人とも何か言って状況認識なり行動決定なりを交わしたいとは感じているのだが、頭が混乱しているのと激しい緊張で喉が渇いて声が上手く出せないのとでなかなかそれも叶わないでいる。
「…なカっ…っ…」
思わず声がうわずってしまったギイチは一度自分の頬をぴしゃりと叩いて、もう一度声を絞り出す。
「何かが…あの長いやつの後ろに何かがいる…!」
「え?」
「あれって、まだその悪魔の腕って奴の一部みたいだ…多分触手か何か、感覚器官と手を兼ねたような身体の一部…」
「身体の一部って…」
既に姿を現していた、恐らくは触手と思しき物体は長さ2mを上回っている。もしもこれが自分の判断どおり身体の一部に過ぎないとしたら、実際の大きさは自分達人間と変わらぬ大きさ…あるいはもっと巨大とも推測できる。
ギイチの推測を裏付けるように、紅い渦の中から更に触手が一本そして…
「…テツヤ、ギイチ君…あれっ…!」
悲鳴に近い声でアイコが渦を指し示す。紅い渦の中心からは二本の触手に吊り上げられるかのように、本体と思しきものが出現し始めていた。
「な…!何だぇ、ありゃあ…?」
その異様な姿にテツヤは絶句する。
それは四人で一番長身のギイチよりも更にふた回り以上大きい。角の張り出した漆黒の体躯は現代彫刻のような幾何学的構造で形成され、一見しただけではどこが体でどこが手足だか判別できない。中央の構成部側面からはパンチ穴が開いたような何枚かの板状の構造が広がり、さらにそこから四本の黒い触手が生えている。
触手は周囲を探るようにもったりと漂い、それだけが妙に生物っぽく蠢いていた。
やがて現れた頭頂部(と、思しき場所)に亀裂が走り、真っ赤な三日月形のクレバスが口を…文字通り、嘲うような口を開いた。
テツヤが思わず飛び出す。すんでのところで触手をかわし、二人もつれて床に転がる。
「ギイチ、手伝え!アイコはロックを頼む!」
「うん、今行く!」
「任せて!」
テツヤはギイチと二人で腕を引き、階上に避難する。ロックを抱いたアイコがそれに続いた。
階段を駆け上がりながら後のアイコを一瞥したテツヤは少し躊躇してから彼女に声をかける。
「アイコっ、ロックは…平気か?」
「バカぁっ!平気なわけ無いでしょお!!」
ロックの身体からはまだどくどくと循環体液が溢れ出しているため、まるで血まみれになっているように見える。
その外観からあまり体温を感じさせない印象だが、それでも気のせいかだんだん身体が冷たくなってきているような気がしてアイコは堪らず大声になる。
「ちょっと待ってよ…こんなワケわかんない状況で死んじゃわないでよぉっ!!」
「…心配…ない…。大丈夫…少し機能が低下しただけだ…」
それが息を吹き返すきっかけにでもなったか、ロックが視線だけをアイコに向ける。だがどう見ても大丈夫には見えない。
「…ぐぅっ…、君たちは…?な…、何故逃げなかった?」
「逃げられるわけないでしょ!そんな血だらけになっちゃってさ!」
階段出口の木の欄干を軸に階段を駆け上がった勢いそのまま体を方向転換させたテツヤもロックの無事を確認する。
「ロック!教えろ、何なんだあのバケモノは?異常形態ってのはみんなあんななのか?」
「わからん…、『あれ』は…、あの『悪魔の腕』は…、唯のミゼット母体ではなく、特別なんだ。」
アイコの手の上で、ロックが苦しげに身を起こした。階下では『悪魔の腕』が尚も覚醒を進行させている。
「あれは、我々がこの屋敷を受け継ぐ以前からここにあったもの…。決して、目覚めさせてはならない『パンドラの箱』として厳重に箱に封印を施されていたはずなのに…」
何か…否、誰かがそのパンドラの箱を開いてしまったのだ…。
覚醒の途中だというのに悪魔の腕の触手が獲物を求めて階段を昇り追ってくる。
際限が無いかのようにどこまでも伸びてくるそれは、あたかもにおいや体温で餌を探す毒蛇のごとく、先端をゆらゆらと左右に動かしながら確実に自分達をトレースしてきているようだ。
「急げ、逃げるんだ!奴が完全に目を覚まさないうちに…!」
アイコの手の平で伏したまま、体を支えることさえもう出来ないロックが叫びを上げる。
「ミゼットの力を侮るな!戦車や戦闘機でも持ち出さない限り、人間ではミゼットに太刀打ちすることは出来ない!」
必死のロックに気圧された四人は、上階の棚を駆け抜け、さらにその先の扉に向かう。
「…あの扉の先には一直線に続く廊下がある。その廊下の突き当りに二階に直接続く階段があるからそこを上れ。上りきったら反対側にもう一つ、下に続く階段がある。それを下りれば…そこが正面玄関…だ」
アイコの薬指にもたれながらロックがよろよろと身を起こす。彼の傷は人間のそれとは異なり、石の砕け目の様に見える。その頬にまで硬質なひびが入っていることに気付いて、アイコは驚いた。
「ここまで有難う…。アイコちゃん、だったね?もうここで降ろしてくれ」
「えっ?」
「ここは私が、食い止める」
「えぇっ!?」
二人の会話が耳に入ってギイチが足を止めた。
「何言ってるんだロックさん、そんな体で…」
著しく循環体液を失ったロックの身体は神経伝達が思うようにいかず錆びついた機械のように動きが軋んでいた。
だが反面「信号」としての痛みも減っているためようやく身体を動かす機能が回復しつつある…人間はこれを「麻痺した」と呼ぶのであろうが、現状ロックにとっては都合が良い。
…そして身体が動くのであれば…為すべき事は…!
「いずれにしても私はこの屋敷を逃げ出すわけには行かない…。安心しなさい。倒せないまでもあいつは私が封じてみせる。たとえこの命を賭けてでも…」
やはりその会話が耳に入っていたのだろう。既に扉に手がかかっていたテツヤの動きが止まる。
しばし扉を凝視してたかと思うとおもむろに振り返り、つかつかとアイコに歩み寄ってきた。
「…テツヤ…?」
「テツヤ…君?」
「…逃げんの、やめた!」
瞬時には彼が何を言っているのか理解できなかったロックに一瞬間空白が生まれる。
「…な、何を…。ば、馬鹿な、君たちは逃げないか!」
「いやだね!断固拒否だ!さっきから聞いてりゃ命を賭けるとか、俺たちは逃げろとか!そんな嫌な思いをしてまで逃げるくらいなら…!」
昂る感情に身を任せたままテツヤは大きくかぶりを振った。いつもの、「恐怖に打ち勝ちたい」という感情を、意地になって絞り出す。
(…君は、どうしたい?どう、生きてゆきたい?)
刹那、声が聞こえた気がした。あるいはそれはこの超弩級の危機的状況の中で生み出された幻聴なのかもしれない、がテツヤはそれで不思議と安心感を感じることが出来た。
テツヤは手袋のストラップを引き絞ると、ヨーヨーを構えた右腕を、悪魔の腕のいる側に向けてびっ、と突き出す。
「負けねー!俺は、てってーてきにあがいてやる!」
「…何を言って…」
「…そうだね、その方が気分良いかな…!」
ロックの制止を阻むように、言葉を挟んできたギイチはジャイロプレーンのメインスイッチを入れるとプロポのステアリングに指をかけた。
更にロックを静かに下ろすとアイコもまた、カメラを構える。
「やぁ~だやだ、テツヤもギイチ君も、熱血なんだから…。なら私も目眩ましくらいは手貸したげないとね…」
三人は目配せを交わしてやがて上がって来るであろう悪魔の腕に身構えた。まるで三人の意思を酌むかのように三人の懐で髑髏のキーホルダーが揺れる…。
「…何なんだ…この子たちは…?」
およそ子供とは思えない決然たる行動…無論、理想主義的なヒロイズムに浮かされ時に暴走し状況判断を見誤るのもまた子供に多く見られる一つの心理であるのだが、こうした明白な脅威の前でそれを実践できるほどの精神的強さは普通、持ち得ないものである。
ロックは呆然と三人の子供を見上げる。…と、その手にした得物が薄ぼんやりと青白い燐光を灯し始めているのに気付いた。
「あの光は…まさか…!」
観音開きの扉を背に、前衛にテツヤ、その後方、両翼にアイコとギイチが布陣する。その三人の気配を察知してか、悪魔の腕の触手がゆっくりとにじり寄ってきた。
もう一度だけ、テツヤは手袋を引き絞ると軽く腰を落とし正眼にヨーヨーを構えた。
「さあ来やがれ!キツイの一撃カマしてやる!」
(…負けたくない…そうだ、テツヤ。意地張って征こうぜ。たとえそれがやせ我慢や悪あがきだとしても、素直に理不尽に屈してやる手はない。恐怖なんて、ねじ伏せてやろうぜ…!)
「言われるまでもねぇ!…って、…え?」
思わず『声』に答えてから、テツヤはその声の主を探す。その出どころは意外なほど近くにいた…。
(やろうぜ!君が不屈の志を持ち続ける限り、オレは君の『力』になろう…!)
テツヤが手にするヨーヨーが一際強く輝きを発し始めた。
自分のヨーヨーが輝き、語りかける。それはまるっきり現実離れした状況であったが、今テツヤはそれをごく自然に受け入れていた。理屈ではない、「そうしていいんだ」という漠然とした確信が彼の心の中に満たされてゆくのを感じたからだ。
「………よし…!行けえっ!!」
三人に向け、悪魔の腕の触手が襲いかかる。それに向けてテツヤは渾身の力を込めてヨーヨーを放った。
回転するディスクホィールの輝きは最高潮に達し、程なく光は小さな人型を形成し始めた。それを認めたロックの目の色が変わる。
「…ミゼット…だ…!」