佐伯地域では寺院が管轄していた「末庵」というものが
あります。
大小の末庵は、仏を祀るお堂と少しの畑と小さな山が
あり、寝泊まり食事は出来るような庵(いおり)です。
宗旨や宗派が違う寺院の総末庵数は、佐伯藩内で200ぐらい
あるのかも知れません。
その「末庵」にすんでいる主を「庵主(あんじゅ)」と云いました。
庵主の中には、出生や家族事情で素性を隠しながら、
行脚して地域のお堂に住んだ僧もいました。
全国的には尼僧を指す呼び名ですが
佐伯地方では比丘(男僧)をさします。
僧堂生活の経験や住持になる資質を備え得ずに、
昔は宗旨も混在していました。
生活のために祈祷やお経を唱え布施を頂いていました。
腰をひいて頭を下げて布施を乞う姿が
「腰が引けて」無気力に見えるところから、
「ふがいない様子」を「庵主腰(あんじゅごし)」と云うように
なりました。
嫁いで来た新米のお嫁さんの畑仕事に姑が
「そんな庵主腰では耕せん」などと使っていたそうです。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
現在は佐伯地域では庵主さんはいなくなりました。
弟子を叱咤するときに
「庵主にでもなれ」とか「おまえは庵主と同じだ」と
いう言葉を昔の和尚(師匠)達はよく使っていました。
おしなべて庵主という言葉は「半人前の僧侶」と云う意味に
扱っていました。
古参の和尚さんが儀式の指導する時に、
「雲水(修行僧)じゃ無いんだからしっかり三拝をしなさい」と
新参の和尚に云うように「庵主」も修行中の「雲水」と同じ
感覚だったのかも知れません。
但し、全てとは限りません。
世をしのぶ高僧が庵主となった例もあります。
又、本寺の住職を受業師として弟子となり、
他寺院に拝請(招かねる)されるまで「庵主」として
精進する僧侶もいました。
正定寺でも江戸期の記録として庵主の名が残されています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
江戸時代に行われた寺請制度で「庵主」は登場します。
当時の佐伯藩は、山間から海辺に広がる地域に民衆は散在していました。
そのために、菩提寺から不便な地域の檀信徒を把握することが
困難になり、「庵主」と云ういわば私渡僧が誕生しました。
宗教統制の一環として設けた「寺請制度」は、民衆がキリシタンでは
ないことを寺院に証明させる制度でした。
小単位でお堂を建て、檀徒の法事は全て庵主が行いました。
そして、異教徒の有無を菩提に報告させていました。
この「庵主」という言葉は、養賢寺で写本された
「東照神君垂範十五ヶ條」・「御条目宗門檀那請合之掟」などに
登場します。(手書きの写しです)
全国で流通した「御条目宗門檀那請合之掟」の冒頭に
記されている。
書物の冒頭には、佐伯地方のオリジナルなのかも知れませんが、
「年忌仏事は庵主に相頼み候」とあります。
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養賢寺の写本を写したようです。
これらの書物は、当時の寺院制度を確立するために偽作された
書物ですが、歴史背景を知る上では面白い資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
昨日のブログに書いた「鞋資」と同じく、
「形は沙門だけれども心に慚愧が無い」
そんな半端な僧侶にならないように
しっかり自分を見据える事が大事であると感じます。
あります。
大小の末庵は、仏を祀るお堂と少しの畑と小さな山が
あり、寝泊まり食事は出来るような庵(いおり)です。
宗旨や宗派が違う寺院の総末庵数は、佐伯藩内で200ぐらい
あるのかも知れません。
その「末庵」にすんでいる主を「庵主(あんじゅ)」と云いました。
庵主の中には、出生や家族事情で素性を隠しながら、
行脚して地域のお堂に住んだ僧もいました。
全国的には尼僧を指す呼び名ですが
佐伯地方では比丘(男僧)をさします。
僧堂生活の経験や住持になる資質を備え得ずに、
昔は宗旨も混在していました。
生活のために祈祷やお経を唱え布施を頂いていました。
腰をひいて頭を下げて布施を乞う姿が
「腰が引けて」無気力に見えるところから、
「ふがいない様子」を「庵主腰(あんじゅごし)」と云うように
なりました。
嫁いで来た新米のお嫁さんの畑仕事に姑が
「そんな庵主腰では耕せん」などと使っていたそうです。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
現在は佐伯地域では庵主さんはいなくなりました。
弟子を叱咤するときに
「庵主にでもなれ」とか「おまえは庵主と同じだ」と
いう言葉を昔の和尚(師匠)達はよく使っていました。
おしなべて庵主という言葉は「半人前の僧侶」と云う意味に
扱っていました。
古参の和尚さんが儀式の指導する時に、
「雲水(修行僧)じゃ無いんだからしっかり三拝をしなさい」と
新参の和尚に云うように「庵主」も修行中の「雲水」と同じ
感覚だったのかも知れません。
但し、全てとは限りません。
世をしのぶ高僧が庵主となった例もあります。
又、本寺の住職を受業師として弟子となり、
他寺院に拝請(招かねる)されるまで「庵主」として
精進する僧侶もいました。
正定寺でも江戸期の記録として庵主の名が残されています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
江戸時代に行われた寺請制度で「庵主」は登場します。
当時の佐伯藩は、山間から海辺に広がる地域に民衆は散在していました。
そのために、菩提寺から不便な地域の檀信徒を把握することが
困難になり、「庵主」と云ういわば私渡僧が誕生しました。
宗教統制の一環として設けた「寺請制度」は、民衆がキリシタンでは
ないことを寺院に証明させる制度でした。
小単位でお堂を建て、檀徒の法事は全て庵主が行いました。
そして、異教徒の有無を菩提に報告させていました。
この「庵主」という言葉は、養賢寺で写本された
「東照神君垂範十五ヶ條」・「御条目宗門檀那請合之掟」などに
登場します。(手書きの写しです)
全国で流通した「御条目宗門檀那請合之掟」の冒頭に
記されている。
書物の冒頭には、佐伯地方のオリジナルなのかも知れませんが、
「年忌仏事は庵主に相頼み候」とあります。
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養賢寺の写本を写したようです。
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これらの書物は、当時の寺院制度を確立するために偽作された
書物ですが、歴史背景を知る上では面白い資料です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
昨日のブログに書いた「鞋資」と同じく、
「形は沙門だけれども心に慚愧が無い」
そんな半端な僧侶にならないように
しっかり自分を見据える事が大事であると感じます。
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