正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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昨日の庵主さんとは・・?

2013年06月13日 | 日記
佐伯地域では寺院が管轄していた「末庵」というものが
あります。

大小の末庵は、仏を祀るお堂と少しの畑と小さな山が
あり、寝泊まり食事は出来るような庵(いおり)です。

宗旨や宗派が違う寺院の総末庵数は、佐伯藩内で200ぐらい
あるのかも知れません。

その「末庵」にすんでいる主を「庵主(あんじゅ)」と云いました。

庵主の中には、出生や家族事情で素性を隠しながら、
行脚して地域のお堂に住んだ僧もいました。

全国的には尼僧を指す呼び名ですが
佐伯地方では比丘(男僧)をさします。

僧堂生活の経験や住持になる資質を備え得ずに、
昔は宗旨も混在していました。

生活のために祈祷やお経を唱え布施を頂いていました。

腰をひいて頭を下げて布施を乞う姿が
「腰が引けて」無気力に見えるところから、

「ふがいない様子」を「庵主腰(あんじゅごし)」と云うように
なりました。

嫁いで来た新米のお嫁さんの畑仕事に姑が
「そんな庵主腰では耕せん」などと使っていたそうです。

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現在は佐伯地域では庵主さんはいなくなりました。

弟子を叱咤するときに
「庵主にでもなれ」とか「おまえは庵主と同じだ」と
いう言葉を昔の和尚(師匠)達はよく使っていました。

おしなべて庵主という言葉は「半人前の僧侶」と云う意味に
扱っていました。

古参の和尚さんが儀式の指導する時に、
「雲水(修行僧)じゃ無いんだからしっかり三拝をしなさい」と
新参の和尚に云うように「庵主」も修行中の「雲水」と同じ
感覚だったのかも知れません。

但し、全てとは限りません。
世をしのぶ高僧が庵主となった例もあります。

又、本寺の住職を受業師として弟子となり、
他寺院に拝請(招かねる)されるまで「庵主」として
精進する僧侶もいました。

正定寺でも江戸期の記録として庵主の名が残されています。

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江戸時代に行われた寺請制度で「庵主」は登場します。

当時の佐伯藩は、山間から海辺に広がる地域に民衆は散在していました。

そのために、菩提寺から不便な地域の檀信徒を把握することが
困難になり、「庵主」と云ういわば私渡僧が誕生しました。

宗教統制の一環として設けた「寺請制度」は、民衆がキリシタンでは
ないことを寺院に証明させる制度でした。

小単位でお堂を建て、檀徒の法事は全て庵主が行いました。
そして、異教徒の有無を菩提に報告させていました。

この「庵主」という言葉は、養賢寺で写本された
「東照神君垂範十五ヶ條」・「御条目宗門檀那請合之掟」などに
登場します。(手書きの写しです)

全国で流通した「御条目宗門檀那請合之掟」の冒頭に
記されている。

書物の冒頭には、佐伯地方のオリジナルなのかも知れませんが、
「年忌仏事は庵主に相頼み候」とあります。



養賢寺の写本を写したようです。

  


これらの書物は、当時の寺院制度を確立するために偽作された
書物ですが、歴史背景を知る上では面白い資料です。

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昨日のブログに書いた「鞋資」と同じく、
「形は沙門だけれども心に慚愧が無い」
そんな半端な僧侶にならないように
しっかり自分を見据える事が大事であると感じます。

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