正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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(HP作成は正定寺閑栖:小原壽山)
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中津川の栗きんとん

2010年10月30日 | 日記
岐阜県中津川の栗きんとんを
但馬の和尚さんが送ってくれました。



懐かしい「栗の味」でした。

9月28日のブログに
「栗を食べに現れる鹿」の写真を載せましたが、
「山栗」が正定寺では人間の口に入らない事を
嘆いた但馬の和尚さんのはからいなのかも
知れません。

早速、いただきました。

今日も遠方からのお参りです。

2010年10月28日 | 日記
今日は「さいたま県」から娘さんの七回忌に
姉妹さんのご家族と91才のお母さんとがお参りしました。

普段、お母さんが出かける時は「車いす」のようですが、
お参りは車いすから立ち上がって歩いてお参りしていました。

境内が砂利なので「車いす」には不便ですが
晋山式までには車いすでもスムーズにお参り出来る
工夫を総代さんが考えてくれています。

お墓が「正定寺霊園墓地」に在るので、
位牌堂でお勤めのあと、お墓にお参り致しました。
お墓は「車いす」用に整備されています。





亡くなった娘さんは「高野美千代さん」と言います。

昔、NHKで放送されていた「ステージ101」に参加していた方で
1973年の「ファンタスティックス (東京キャスト)」のミュージカル
では宝田明さんがエルガヨ役、高野美千代さんがヒロインのルイーズ役で出演していました。

遠方からのお参り

2010年10月27日 | 日記
今日は養母さんの33回忌に
大阪の枚方からお子さんがお参りしました。
お子さんと云ってもお元気な喜寿のご婦人です。



養父さんは正定寺の先々代のお弟子さん。
養母さん(尼僧さん)は佐伯市願成寺の
お弟子さんでした。


佐伯市の大入島という島に
子供を失った養父母が住んでいて
そこへ6才で養女として迎えられたそうです。

養父母のもとで育ち、女学校を卒業して結婚。
昭和40年に養父を看取り、
大阪で90才の養母を看取りました。

昭和54年の養母さんの逝去には
先代和尚が出向き葬儀を行っています。

遠地でも菩提寺の和尚を呼んで亡き方を
弔う事は喪家の「報恩の証」と「ルーツへの誇り」
なのかも知れません。

遠くに住んでいる檀信徒が年忌法要で
菩提寺へ帰ってお参りする姿は
住職としてとても嬉しいものです。

菩提寺を忘れないことを嬉しく
思っています。

新米のご供養と抹香

2010年10月24日 | 日記
高齢の女性が「新米」を仏さまに
供えに参りました。

今年のお盆前に亡くなった弟さんが
作付けした稲の新米です。

弟さんは独身でした。

嫁いだ姉・妹が弟さんの後を引き継いで
田んぼを管理しながら育てたお米です。





どのような気持ちで稲穂を刈り取ったか
ご姉妹の心情を思うと米一粒がとても
もったいなく感じました。

以前、「樒(佐伯ではシキビと発音する)」の木が「香」になることを
知った檀徒のおじさんが時間をかけてシキビを粉末にしてお供えしてくれました。
両親の供養にと大量の「純粋シキビ香」が澄みきった朝の空気に
上品に漂います。





お供えされた新米の前で焚かれる香・・・

自然に手が合わさります。

お地蔵講の座前

2010年10月21日 | 日記
正定寺がある地区を「上の地(うえのじ)」と云います。
地元の方は「うえんじ」と発音します。

過疎化が進み現在は18戸になりました。
高齢化も進み、子供も少なくなり
なかなか昔の行事も出来なくなりました。

そんな中でも「お地蔵講」だけは毎月行われています。
座前(世話役)になった家では1ケ月間「お地蔵さん」の
お世話をします。

今月は正定寺がその座前になりました。

二日前に女性部がピカピカに拭き上げた
位牌堂で午後1:00から「地蔵講」が
行われました。

普段はお経が達者な方が般若心経や地蔵和讃を
唱えますが、今月はお寺なので私がお参りします。

お地蔵さんのお経が終わったら、
参拝者のおばさん達が「数珠くり」をします。

大きな数珠を手に取って般若心経を唱えながら
回します。

親玉が手に来たら額に当てて利益を頂きます。





なかなか写真に撮られるのが嫌なようでした。
でも、みなさんとても元気です。

遠地で活躍されている「うえんじ出身者」のみなさん・・・
ご家族はお元気ですよ。・・・

ちなみに昔の写真




位牌堂清掃奉仕

2010年10月19日 | 日記
午後1:30から「位牌堂清掃奉仕」が女性部11名により
行われました。
天気も良く絶好の清掃日。

位牌堂には大切な檀信徒の位牌386柱がありますので
「マスクに白手袋」を着用して11名の女性部により
一柱づつ棚から下ろされ清掃奉仕が始まりました。







3時間後、丁寧にハタキでホコリを払って見違えるほど
綺麗になって再び安置されました。

女性部のみなさん!ご苦労さまでした。


波部黒大豆(はべぐろだいず)

2010年10月16日 | 日記
丹波の成徳寺の和尚さんは専門道場の同参(同級生)で
今年の2月にはわざわざ九州まで見舞いに来て
くれました。修業時代から「手話」ができて
障害者の手助けができる和尚に成りたいと
いつも云っていました。

成徳寺の寺報には「4分の1の奇跡」という本の
紹介が載っていましたので、早速、佐伯の書店で
本を求めて読みました。
とてもすてきな本でした。

その成徳寺の和尚さんから「身体に良いから」と
波部黒大豆(はべぐろだいず)が送って来ました。

波部黒大豆はその昔、丹波篠山藩の波部庄屋が
選りすぐった黒豆を栽培したことが始まりと
品書きに有りました。


明日は仏さまと一種に
波部黒大豆(はべぐろだいず)を頂く事にします。

私の身体を気遣ってくれて感謝しています。







夢見る老人介護

2010年10月15日 | 日記
菊池藩菩提寺である正観寺和尚さんの依頼で
熊本市に在るケアハウスへ法要の荷担に
出向きました。

日本庭園に囲まれた武道場で法要は営まれ、
大勢の関係者が焼香していました。

武道場に配された茶室で更衣しました。
その茶室前でのスナップ


施主は
「夢見る老人介護 -最期まで意欲的に生きたいあなたのために」
の著者である小山敬子先生(女医)
最近はテレビなどで紹介されるケアハウスの「おとなの学校」でも
有名な先生(前列中央)


法要後はお斎を馳走になって、
少々おなかもふくれたので
熊本城へ一人で散歩に出かけました。



城主で有名な「加藤清正公」は日蓮宗の熱心な信者
で城内にも加藤清正公が「南無妙法蓮華経」と書かれた
旗を背にした肖像画も展示されていました。


栄西と中世博多展を見に行きました

2010年10月13日 | 日記
臨済宗の開祖で、禅と茶を日本に広めた栄西(1141-1214)の
足跡とゆかりの品を紹介する「栄西と中世博多展」
(西日本新聞社など主催)を福岡市博物館に見に行きました。
栄西直筆の国宝「誓願寺盂蘭(うら)盆一品経縁起」
や九州初公開の「明庵栄西坐像」(鎌倉・寿福寺蔵)など書状や経典、
工芸品など計152件の文物が紹介され。
栄西が創建した最初の禅寺、聖福寺(福岡市)の三尊仏や勅額も展示していました。





突然の訪問へ

2010年10月12日 | 日記
病気から1年、お見舞いに来ていただいた
寺院へ元気な姿を見せようと思い立ち
中津~北九州~志賀島へと行きました。

連絡もしないでお邪魔しました。

最初にお邪魔しました大分県中津市の
自性寺さん
・・・
中津の自性寺は中津藩主:奥平家の菩提寺で
とくに「池大雅」の「大雅堂」には障壁書画46点や
心臓ペースメーカーの父として世界的に知られる
田原淳博士のお墓などが在ります。

自性寺和尚さんとショット

「大雅堂」の前で扁額筆は「止止庵老大師」


次に北九州市若戸大橋を渡って
高岳寺さんへ
九州では珍しい臨済宗方広寺派の寺院です。

扁額筆は「止止庵老大師」

和尚さんとショット


次は志賀島の荘厳寺へ

荘厳寺は
2006年の福岡県西方沖地震で寺院は壊滅しました。
檀信徒の家々も同様でした。

そんな中、住職・檀信徒が一丸となって
寺院再建に向けて立ち上がり
現在、本堂の再建中でした。

正定寺は500年の間に庫裡・本堂の再建は4度
行われています。
いずれの和尚さんも精根を使い、再建の
苦労が日誌や古記録から見えます。

荘厳寺も来春に本堂が立ち上がるとの
事でした。
係わった全ての方々が随喜して
慶ぶ姿が待ち遠しいですね。

再建中の本堂


和尚さんとショット

チャミと板敷き払い

2010年10月11日 | 日記
蒲江町尾浦は百姓一揆で所替えの地となった
場所です。

そこの檀家さんへ法事に行き、
尾浦でしか耳にしない言葉を教えて
もらいました。

「チャミ」
・・・これは
『今日の法事はチャミじゃきな~』などと使います。

意味は、
「今日の法事はたいしたごちそうもできないので手ぶらで
お参りしてください。」と云う意味だそうで、
ようするに「仏さまへのお供えやご仏前は結構です」と
云うことです。

親族の間でお供えの「やったり・もらったり」を簡略化した風習の
ようです。

「板敷き払い」
・・・これは九州地方ではよく使うようで
お祭りや神事の「直らい」・仏事の「お斎」の
ようなものです。

尾浦では
葬儀が終わった次の日に行い、葬儀を手伝ってくれた方々に
ねぎらいの料理を振る舞う事を「板敷き払い」
と云います。

今では「精進明け(あげ)・精進落とし」と一緒になっている
との事です。

学童疎開

2010年10月11日 | 日記
「学童疎開」という言葉を聞かなくなりました。
既に終戦から65年を過ぎています。

正定寺には昭和19年9月9日沖縄県具志頭村具志頭
国民学校の学童49名が疎開していました。

高等科2年8名・高等科1年4名
小6年8名・小5年13名・小4年9名・小3年7名)と
引率教師2名・寮母及び世話人5名が
昭和21年11月に沖縄に戻るまでの2年数ヶ月を
旧川原木村の正定寺で過ごします。

昨日、当時の引率教員「森田吉雄先生」のお孫さんが
初めて正定寺を尋ねて来てくれました。

生前、あまり学童疎開の話を聞かされて
いなくて、亡くなったあとその事を知ったとの
事でした。

こうして当時の学童疎開者の子孫が
正定寺を尋ねてくれる事がとても嬉しく
疎開者の苦労や戦争の惨劇が後世に語り
継がれて行くことを望んでいます。





金閣寺客殿障壁画完成記念・岩澤重夫展

2010年10月10日 | 日記
今月の7日~12日まで大分市のトキワ会館で
「岩澤重夫展」が開催されています。

金閣寺・銀閣寺の本山が臨済宗大本山相国寺です。
その相国寺の和尚さんから案内状が届いたので
大分市の檀家さんへお知らせしました。

今日の大分合同新聞に「岩澤重夫展」の盛況ぶり
が報道されていました。
その記事に展覧会を見に行った檀家さん
ご夫婦がインタビューされていました。


(大分合同新聞10月10日朝刊より)

岩澤重夫展
文化功労者で日本画家の岩岩澤重夫画伯は昭和2年
大分県日田市生まれ。
京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)在学中の
昭和26年には日展出品作「芥子」が初入選。

堂本印象に師事、初期には抽象作品も手がけますが、
その後雄大な風景画に挑戦、独自の画風を確立させました。

近年は綿密な花などを描き、日本美術界の発展に大きく
寄与しましたが、
遺作となった金閣寺客殿の障壁画を完成した直後の
昨年日月急逝されました。

障壁画は、日田市の旧制中学で後輩にあたり
「その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬頼底師が
平成16年に制作を依頼、5年を費やして完成したものです。
本展覧会では、金閣寺客殿1階の3部屋に描かれた襖絵などの
障壁画61面を初めて一挙公開します。

また「文部大臣賞」や「日本芸術院賞」受賞作などの
日展出品作を中心とした代表作40点もあわせて展観し、
画伯の偉業を振り返ります。没後初の大回顧展。
心ゆくまでお楽しみください。






AKさん

2010年10月09日 | 日記
AKさんの生家は、赤木の奥村にありました。
家屋はなくなりましたが石垣が残っています。

東海市に一家が住んでいますので
なかなかお会いする機会はありませんが
時々お姉さんからは『弟は元気ですよ』と
聞いています。

AKさんのお母さんが亡くなった平成5年か姉婿が
亡くなった平成9年にお会いしたのが
最後だと記憶しています。

ご姉妹がこの村に住んでいますので、お墓の
守は姉妹が滞りなく行っています。

AKさんのご両親はとても「力持ち」
だったと先住職から聞かされていました。

お母さんは物静かなおばあさんで、
お盆にお参りすると、後ろに座って
『和尚さん暑い中ご苦労さまです』と
団扇で私に風を送っていました。

クーラーや扇風機があまりなかった
時代は、お盆に僧侶がお勤めする
後ろからウチワで涼しい風を送る
檀家さんが大勢いました。

父に連れられお盆にお参りしていた
子供の私にも同じように
ウチワであおいでくれていました。

今年、新命和尚がお盆参りをしたのですが
数件の家で昔ながらにウチワであおいでくれる
おばあさんやおじいさんが居たと聞かされました。

暑い中での涼しい風は、とても有り難くて
どの僧侶も仏壇に手を合わせるのと
同時に後ろであおいでいる生身の仏さまにも
手を合わせて自然に頭が下がります。




AKさん

2010年10月08日 | すばらしき檀信徒
AKさんご夫婦は共に90才を過ぎています。

AKさんは80才代にワープロ教室に入学して
最高齢でワープロを使いこなしていました。
何度か私もワープロで書いた手紙を頂きました。

物静かな奥さまと二人暮らしで、
男のお子さんが居ないので、娘さんご夫婦が
お世話をしています。

以前、妙心寺650年遠諱記念で写経奉納があり、
正定寺では各家2巻を目標に般若心経の写経を
お願い致しました。

AKさんご夫婦が高齢でもあったので、
私が気をきかして、写経用紙を娘さん
に送り、写経の依頼をお願いしました。

数日たって、地区の世話人さんから
『AKさんが写経用紙が届いていない』と云っている
と連絡がありました。

どうも、「高齢だから写経は無理」と
気を回した私へ少々おかんむりの様子です。

すぐさま、写経用紙を1枚AKさんに届けましたが
『和尚さん!2枚ではないのですか?』と云われて
しまいました。

結局、AKさんが2巻・奥さんが1巻それに娘さんが
1巻と4巻の奉納をしていただきました。

年寄りだからと云って心が衰えた訳ではありません。

墨をすって筆を取り、写経をするのは年齢に関係ないことを
当時、93才のAKさんに教わりました。

このような方々のお陰で檀信徒409名から608巻が本山妙心寺へ
奉納されました。