過酷な道のりを一時間三十分かけて歩いて帰ることにした。途中でタクシーに乗るつもりであったが、空の車は通らなかった。軒を閉ざした商店街をひたすら歩き続けた。
途中、力尽きて一杯飲み屋の暖簾を潜る。コップになみなみと注がれた御神酒を飲み干すと、食道を生き物のようにするすると伝う様を感じる。御神酒と一緒に出された鯣をあてにちびりちびりとやりながら、心にうつりゆくあーでもない、こーでもないの出来事をあれやこれやと思案するのである。
ふと窓を振り返ると、血が一滴硝子の表面をするすると流れている。硝子のさらに先には、明鏡タワーへと続く櫻井橋が見える。三十年前、このあたりは天然痘が猛威をふるい四千人以上の感染者、千二百人の死亡者が出た。人々からは、見定めの病として恐れられていた。この病により、未だ閉鎖されている明鏡タワーのことが無性に気にかかる。
目を開けると天井が見えた。
昨日は少し飲み過ぎたようだ。どうやって家にたどり着いたんだろう。しかも、きっちりと寝巻きを身につけている。時間はもうすぐ昼になるところだった。
明鏡タワー・・・か。昨日の一杯飲み屋で頭に巡っていた言葉が再び浮かんだ。
皆、記憶から消し去ってしまいたい。そう思っているんだろう。
忘れようとも忘れられぬこともある。そう、あの明鏡タワーの出来事は・・・。
一張羅の背広の端がほころびかけている、街へでて、捜し求めるがこれといって出物がない。
そうこうしているうちに、時間も押してきて、「ええーーーい、面倒だ」と、帰宅を急いだ。木戸をあけて、家へはいろうとした時、表札が落ちた。巽 甚五郎・・少し薄れかけた文字がそこにこびりついていた。
私の脳裏に、あの頃が浮かんで来た。そう、あの忌まわしい記憶が・・。
いやな思い出はいつも胃液とともに、蘇る。ふと腕時計に目が留まった、かれこれ8時を廻ろうとしていたが、
まだ、いつもの電話はかからなかった。
朝な夕なに遠く離れた妻からの便りがある。陰惨な思い出が私を取り囲んだとき、黒電話のじりじりと鳴る音で、現実に引き戻された。妻の明るい声が耳に響いた。
「トンネルは抜けられそう?」それはプロジェクトBを指していた。
そう、そうだった。契約のタイムリミットは近かったはずだ・・そう思って壁のカレンダーを見た瞬間、体が凍りついた。
そこには・・・・。続く。