いつもとは全く違うネタで御座います。
鉄道ネタはもう13年ぶりかしら。
子供の頃、時刻表抱えて電車ごっこしてる子供でした。
今でも兵庫但馬の本家帰省する時は「電車」とは言わず「汽車」で帰る
そういう言い方します。田舎の鉄道見に行くには「チト、汽車見に行ってくる」です。
電化していない区間に走っているのは電車では無く、ディーゼル車ですし。
コレを東京近郊へやってきて「汽車」というと驚かれ、
または馬鹿にされていたりで。汽車というと通称「デゴイチ」と呼ばれる
蒸気機関車のイメージを持たれるので。
私は「電車」では無く「汽車」好きです。
もう廃止になったブルートレインに乗る時
島根県浜田市〜京都の電化されてないエリアはディーゼル機関車のDD51が
客車を引っ張り、京都駅で電気機関車のEF65へ機関車を取り替えるんです。
東海道線入ったら爆走でしたが。
と、もう昭和に廃止となったんですよね。
京都〜出雲市へと10時間以上かけて走る各駅停車の夜行汽車。
思えば、こういう夜行列車はモータリゼーション時代が来るまで沢山有ったのですしね。
「夜汽車」と呼ばれ。
コレが田舎の駅に深夜止まる列車で一番遅い時刻の汽車でした。
私達は各駅停車列車の事を「鈍行」と呼んでました。
単線なので待ち合わせで50分とか当たり前でしたね。
私の汽車の感覚はディーゼル特急と急行、そして
このドアが開きっぱなしで走り、便所に入れば便器の底に穴が空き
線路が見える、通称「黄金列車」。出したら撒き散らす、現代では問題な。
車両も昭和30年代のモノが多いので白熱灯。
こういうマニアな動画を上げてくれる人が居て嬉しいです。
【国鉄なつかしの風景】京都夜行・普通列車「山陰」号~米子駅にて・1982~83年頃
この「山陰」、基本は客車なのですが、
一台だけ寝台車両が連結されておりました。
DD51ディーゼル機関車が牽引し、山陰線の殆どの各駅を止まる。
ど田舎でも御構い無し。
出雲市〜京都へ短縮される前は山陰線経由で下関迄21時間かけて走っていたそいな。
深夜0時頃から車掌の停車駅アナウンスは朝7時迄休止。
人口が少ない駅は通過してましたが殆ど止まっていましたね。
当時、急行列車、特急列車が普通に走っていたので
過去の遺産的になりかけていたこの「山陰」は時間かかり疲れるけど
急行券、特急券が必要無いので利用していた人も多い事でしょう。
この「山陰」号は1985年、昭和60年に廃止になってしまいました。
時刻表を脇に抱えた子供にとって、魅惑且つ謎の列車でした。
乗って見たくとも、当然小学3年生の子には許しが下りない。
昔はこういう夜行の鈍行列車は日本の至る所で走っていたのでしょう。
子供にはブルートレインには劣るけど、裏の魅力が
想像力を膨らませる列車でした。
鉄道ネタはもう13年ぶりかしら。
子供の頃、時刻表抱えて電車ごっこしてる子供でした。
今でも兵庫但馬の本家帰省する時は「電車」とは言わず「汽車」で帰る
そういう言い方します。田舎の鉄道見に行くには「チト、汽車見に行ってくる」です。
電化していない区間に走っているのは電車では無く、ディーゼル車ですし。
コレを東京近郊へやってきて「汽車」というと驚かれ、
または馬鹿にされていたりで。汽車というと通称「デゴイチ」と呼ばれる
蒸気機関車のイメージを持たれるので。
私は「電車」では無く「汽車」好きです。
もう廃止になったブルートレインに乗る時
島根県浜田市〜京都の電化されてないエリアはディーゼル機関車のDD51が
客車を引っ張り、京都駅で電気機関車のEF65へ機関車を取り替えるんです。
東海道線入ったら爆走でしたが。
と、もう昭和に廃止となったんですよね。
京都〜出雲市へと10時間以上かけて走る各駅停車の夜行汽車。
思えば、こういう夜行列車はモータリゼーション時代が来るまで沢山有ったのですしね。
「夜汽車」と呼ばれ。
コレが田舎の駅に深夜止まる列車で一番遅い時刻の汽車でした。
私達は各駅停車列車の事を「鈍行」と呼んでました。
単線なので待ち合わせで50分とか当たり前でしたね。
私の汽車の感覚はディーゼル特急と急行、そして
このドアが開きっぱなしで走り、便所に入れば便器の底に穴が空き
線路が見える、通称「黄金列車」。出したら撒き散らす、現代では問題な。
車両も昭和30年代のモノが多いので白熱灯。
こういうマニアな動画を上げてくれる人が居て嬉しいです。
【国鉄なつかしの風景】京都夜行・普通列車「山陰」号~米子駅にて・1982~83年頃
この「山陰」、基本は客車なのですが、
一台だけ寝台車両が連結されておりました。
DD51ディーゼル機関車が牽引し、山陰線の殆どの各駅を止まる。
ど田舎でも御構い無し。
出雲市〜京都へ短縮される前は山陰線経由で下関迄21時間かけて走っていたそいな。
深夜0時頃から車掌の停車駅アナウンスは朝7時迄休止。
人口が少ない駅は通過してましたが殆ど止まっていましたね。
当時、急行列車、特急列車が普通に走っていたので
過去の遺産的になりかけていたこの「山陰」は時間かかり疲れるけど
急行券、特急券が必要無いので利用していた人も多い事でしょう。
この「山陰」号は1985年、昭和60年に廃止になってしまいました。
時刻表を脇に抱えた子供にとって、魅惑且つ謎の列車でした。
乗って見たくとも、当然小学3年生の子には許しが下りない。
昔はこういう夜行の鈍行列車は日本の至る所で走っていたのでしょう。
子供にはブルートレインには劣るけど、裏の魅力が
想像力を膨らませる列車でした。
「はやたま」
でしたね
私神戸生まれでその後、大阪近郊を82年迄転々としてました。
和歌山市に住んでましたが、そんな列車有ったんですねぇ。
くろしお号に乗っても新大阪〜那智勝浦迄、5時間近くでヘロヘロでしたが
新宮迄、夜行列車の鈍行が走っていたんですねぇ。
こんにちは、335です。実はこう言う、太郎さんのフェイントのような日記が結構好きだったりします (^^)。
汽車や鈍行、私の両親も良く使っていた言葉でした。子供の頃は「汽車!? 」と言われてD51と思いワクワクしてたら電車で、「汽車じゃないっ~! (T-T)」と泣いて親を困らせたりとか…。
昭和の風景って今見てみると独特の空気がありますね。考えてみると昭和よりも平成の方が生きてきた時間は長いのに、やっぱり自分は昭和生まれとしか思えないです。
やはり、田舎エリアで電化されていない所は汽車と言いますよね。
私はキハ81系が一番好きなんです。特に赤い線が入っていた頃の。
京都迄、山陰線の保津峡辺りをクネクネ走るDD51に哀愁を感じ
京都駅から東京迄の爆走感のギャップが堪らないんです。
当時はイヤでしたし、混みすぎる福知山線では線路に落とされそうになったのですが
DD51が引っ張るこの客車で旅をしたいです。網棚も本当に網棚で。
結構書いていたのですが、皆さんが居なくなるとウケなくなり控えていました。
やはり親御さん時代は汽車と呼びますよね。東北線も電化されていない時期有った訳ですし。
今では全国でD51に乗れる線増えましたが
私が鉄道好きな頃は静岡の大井川鉄道か山口県の萩でしか走ってなかったっんですよね。
環境問題も有ったかもしれません。
平成でバブルが弾ける迄、昭和は戦争の悲劇や復興迄のを挟みつつ、
世の中に元気が有った感じがします人も人間くさくて。