えーあらい

昨日今日の出来事や感想

阪神淡路大震災 あの日あの時

2025-01-17 15:45:18 | 社会

  阪神淡路大震災 あの日あの時
  これは30年前に書いたものです。今このような地震に見舞われたら何も出来ません。東南海大地震が発生すれば建物自体が保たないと思っています。

  阪神大震災(兵庫県南部地震)体験記   1995. 2.1.
  この度の兵庫県南部地震で被災された皆さんには心よりお見舞い申し上げます。

  今回の兵庫県南部地震は大阪で震度4と発表されましたが、大阪管区気象台の位置は大阪の上町大地の岩盤の上にあり、そのため気象台では余り揺れず震度
4と発表されました。
  こんなに被害があったのに、と抗議があり新しく西淀川に地震計が設置されました。その後の余震が西淀川の地震計で震度4であり、それは大した揺れではなかったので、それに比べると本震は震度6はあったのではないかと思います。北大阪急行、桃山台駅の地震計は震度6を指していた事が後で分かりました。

  我が家では、地震発生直後は、連絡が取れず、難渋いたしましたが、神戸市中央区在住の兄姉を含む親族全員無事が確認されました。ただし神戸の者は避難所暮らしをしておりました。身内を亡くされた方々の報に接すると胸が痛みます。

  その地震の様子は豊中市では次のようでした。
  私の住まいはマンションの8階で、この度の地震では食器棚が倒れ、そのガラス戸のガラス、そして中の食器はほとんど割れ、人形ケース、額などが落ち、家の中は靴を履かないと歩けないほどのガラスの海になりました。(隣家は靴を履かれたそうですが、我が家では後のことを考えてスリッパを履きました。)
もちろんテレビや電子レンジも転落し、本箱本立て、納戸、押入、袋戸棚の物は全て飛び出しました。洗面台もホーローが割れるなどの被害が有りました。

  地震は寝込みを襲われた感じで、目が覚め寝床から身を起こしただけで、これは一体何??・・・地震?・・とは分かったが為す術がなく揺れに身を任せているだけでした。直ぐに電気が消え真っ暗になりましたので辺りを見極める時間がありません、ガチャガチャと言うガラスの音、そして割れる音、きしむ音、揺れるだけでなく凄い騒音がしていました。真っ暗な中で、ただ事ではない様子を感じながら時間が過ぎて行きました。そんな状態でしたが、その時の頭の中は、まさか家の中がひっくり返っているとは夢にも思いませんでした。地震が止みました。それは数十秒の出来事だったのにすごく長かったように感じました。

  各部屋から大声で「大丈夫か?!」と声を掛け合い無事を確かめました。
起きあがって暗闇の中を見渡すと、襖が外れ部屋の中は足の踏み場もない程、物が散乱していました。隣の部屋では倒れた鏡台が襖に突き刺さっていました。懐中電灯を探しましたが、いつもの場所にあるはずがなく、 しかし、幸運にも見つけることが出来ました。もう1つの懐中電灯を探し、更にもう1つ、合計3個の懐中電灯を探しだし、それぞれが持って行動する事にしました。トランジスタラジオを見つけました、しかし鳴りません、もう1つ裏蓋の外れたラジオを見つけました。それには電池がぶら下がっていたのでスイッチを入れるとラジオが地震情報を伝えていました。でもその時はそんなに大した事でも無いような報道ぶりでした。情報が入ってなかったからでしょう。

  玄関も下駄箱が倒れ直ぐには表に出られない状態でした。息子が下駄箱を起こし、玄関の戸を開け表の様子を見ました。それによると幸いな事にマンションでの火災の発生は無く一安心です。

  ぼうぜんとしながら家の中を動けるように少し片付けを始めました。小1時間も経ったでしょうか、突然、洗面所の水漏れ警報機が鳴り出しました。あわてて止めに行きましたが、洗濯機やバケツの水がこぼれ床が水浸しになっていた。それを拭きながら、何で警報機がなったのか分からなかったのです。そしてやっと気付いたのです。警報機が鳴ったという事は・・・・・アッ、電気が来てる。おーいテレビを起こしてくれ、点けてみてくれ! あっ映った、壊れてない。
うわー、ええっ大変やー、・・・しばし復旧作業中断、テレビを注視。そこには想像もできない映像が映し出されていました。高速道路の倒壊、阪急伊丹駅の倒壊など、まさか、と目を疑うものでした。

  朝の8時半頃カナダの息子から電話、「大丈夫ーーっ?? こっちでもテレビでやってるでー」「日本語でそのまま映ってるわ」  あの電話の掛かりにくい17日に留学中の息子が3回も電話してきて長電話、あとで高い請求書が来るでー。それにしても電気の早かったこと、そして有り難かったこと。

  机の上に置いてあった腕時計が机の下敷きになっている。信じられない状況は横揺れだけでなく激しい上下動を裏付けています。片付けの後、どうしても出て来ないカードと薬を探して、もしやと思い、机を上げてみますと、その下に2つとも無傷でありました。我が家はタンスこそ倒れませんでしたが、洋服ダンスの扉は全て開き、蝶番ががたがたになっていました。廊下の扉も蝶番が、がたがたになって閉まりません。他の棟や階ではタンスやピアノが倒れたそうです。

  納戸の物は廊下に放り出され、キッチンの上の袋戸棚の物が落ちてキッチンの前は、それが山になって立ち入る事もできません。開いた冷蔵庫の扉で牛乳パックが押しつぶされ、卵が落ちてもいないのに冷蔵庫の容器の中で割れていました。倒れていない食器ケースの中も縦揺れのせいか食器が割れて被害甚大、仏壇は扉が開き中の物は全部飛びだし中には何も残っていないし灰だらけでした。

  3台あるDC電源の内2台落下、モデム、TNC、無線機も落下しましたがパソコン、ワープロ、ディスプレイは辛うじて机の上に留まりました。しかし、キーボードはカールコードを伸ばして2つとも落下していました。机は20センチ程移動し壁にこすれた跡が残っていました。しばらくして電気が来ましたので結線を直して取り合えずYDOにアクセスして見ましたが無線機が中ぶらりのままのせいか繋がりません。仕方なく無事な事のしるしとしてビーコンを流す事にしました。

  幸いにも2台のテレビは転落したのに故障せず、比較的早く電気が来たのでテレビをつけて他の被害の状況も見ることが出来ました。そこに映ったテレビの情景は信じられないもので、阪急伊丹駅の状況を見た時、伊丹にある我が社は倒壊しているのではないかと心配になりました。何回も会社や親戚に電話しましたが繋がりません。しかし、昼過ぎには会社にも連絡が取れ、親戚も次々と無事が判明しました。

  水道とガスが止まりましたが、水はポリタンク2つに常備してあり、ガスはキャンプ用コンロが1つに携帯用コンロが1つあり、予備のボンベもありますしインスタントラーメン、カップラーメンなど日頃からストックがあり、米もありますから当面は困る事が無い状態でした。しかし、余震があるというので携帯ガスコンロを使うのはやめました。ですがお昼には電気ポットでお湯を沸かして、コーヒーを飲みパンで昼食を取る余裕がありました。そして昼過ぎには水が、翌日にはガスも使えるようになりましたので、風呂にも入れるようになりました。

  食器類は皮肉にも値段の高い物が壊れましたが日常使用する物は残っており食飲に困るような事はありません。ガラスを踏んだ私の足の怪我も僅かで1週間もしないうちに治癒致しました。私も歳ですから老眼が進んでいますが、おかげでまだ新聞が眼鏡無しで読めるので、老眼鏡は持っていますが仕事ではほとんど眼鏡を掛けずにやってきました。しかし刺さったガラスは裸眼では見えず、老眼鏡に虫眼鏡を用いてやっと抜きましたが見えない目にもどかしさを感じました。

  この様な状態でしたが、地震直後から直ちに復旧に取りかかり、電子レンジを始めとし修理して使える物は直し、「引っ越しより大変やなー」と言いながら親子3人で懸命の復旧作業を行い、その日の夜8時頃にはガラス片も片付け、裸足で歩ける様になりました。これは電気が来ていたので電気掃除機が使えたお陰です。電気掃除機が無ければガラス片を吸い取ることが出来ず、もっと時間が掛かったでしょう。それに水道が使えた事も幸いしました。これで曲がりなりにもその日の内に生活が出来るまでに修復しました。夕食のカップラーメンとご飯の美味しかったこと。

  大きな余震が来ると言われているので、タンスの上に置いていたものは、そのまま下に置いています。10~20センチも動いたタンスや冷蔵庫、本棚、机などは、休みを利用して順番に元の位置に戻しました。

  状況は、この様で、神戸、芦屋、西宮、伊丹、宝塚の方々に比べれば被害は軽いでしょう。しかし、生まれてこの方経験した事のない大きな地震でした。神戸や兵庫県南部と共に豊中市は激震災害地に指定されました。
  又、伊丹の勤務先も、建物は大丈夫ですが、内部の被害が大きく、翌日出社して見ますとラックやロッカーが倒れ、書籍や書類が散乱し足の踏み場もなく、吊り蛍光灯は全部落ち、倒れている机もありました。しかし、一番心配したOA、CADなどのコンピューターはキャスター付きデスクに搭載していましたので、デスク自体が動き、ディスプレイなどの落下を免れまして全て無事でした。図面を書くプロッターも全てキャスター付きの為、無事でした。普通の事務机の上に載っていたパソコンは、全てディスプレイが転落していました。事務所ではこのようでしたが工場現場ラインの状況はひどく、その復旧に追われる毎日でした。ラインの復旧は地震のあった週の1週間掛かりました。次の週はほぼ従業員も出揃ってきましたので正常業務に戻りましたが、家屋全壊、半壊、身内を亡くされた従業員も居り、会社では水もガスも出ない従業員にはお弁当、水、ガスコンロを配り、ガスボンベは東京から送って貰って配布、洗濯機を買って会社で洗濯できるように配慮されました。

  猪名川に架かる桑津橋が1本通行止めになっておりまして、それにつながる陸橋が全面通行止めです。当分は交通が混乱しますので通勤に時間が掛かります。この桑津橋、地震の次の日に車で通った時、ガタガタしているなと思ったのですが、その次の日は通行止めになりました。たぶん行政も直ぐに対応できなかったので放置されていたのでは、と思いますが、何でも橋脚が外れ掛かっていたとか、危ない橋を渡ったものです。
825(1760)

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