☆発荷峠からみた十和田湖 - 秋田県鹿角郡小坂町字十和田湖【画像取得年月日 - 2012/09/02-07:06 - 】
☆ユーザーさんの風景写真(北海道)より。ch33182写真枚数 100枚
★9月最初の日曜日の今朝は、晴れて良い天気となっています。早朝の気温は、22℃と相変わらず低かった。8月末より、急に陽気が変わり朝晩が涼しくなって来た。特に夜と朝晩が随分楽になった。従って、ここ最近はエアコン無しでOKである。昨日も未だ日向は暑いが、日陰や屋内は風が心地よく感じられる様になった。
当地でも8月下旬ごろから稲の収穫作業が始まったが、昨日の週末も稲刈りがあちこちで行われていた。9月に入り、なんとなく秋の訪れが感じられる。
先月申し込んだ「北海道ベストハイライト」の4日間の旅は、今日のチラシを見る限り出発決定で満席となっていた。従って、申し込みが遅かったのでギリギリだったのだろう。北海道は今回で5度目だが、宇部空港利用と旭山動物園が初めてである。出発日まで一ヶ月少々有るが、早くも北海道に興味が湧いてきている。連日過去の写真や、ユーザーさんのフォトチャンネル等を見ている。色々条件が整えば、5年後位に再度マイカー利用で東北か北海道の旅をして見たいと夢見ているが?ツアーは楽で安くて行けるが、面白いのは自分達で企画し自己責任で行くのが楽しい。
昨日は、「ラジオ深夜便」で知った野草料理家の若杉友子さんのインタビュー記事をコピペしました。この記事を読んで、今我々が失った物や忘れた物等を教えてくれる様に思った。我々の子供時代は戦後で貧しく決して豊かでは無かったが、皆必死で働き夢が有った様に感じる。当時の我が家も、殆んど自給自足の生活だった。ツクシやスイバは食べた事は無いが、ヨモギや山菜(フキ・ワラビ・ゼンマイ)等は祖母が中心に作ってくれていた様に記憶している。調味料の味噌・醤油は自家栽培の豆から作っていた様だ。餅やおはぎは勿論の事、豆腐まで釜で炊いて作っていた(特別な日や晴れの日等)。我が家だけでなく、昭和20年代頃の農家では当り前だったのだろう。それから60年以上経った現代、食生活も随分と変わっている。「食べ過ぎに飲み過ぎ」に、注意しなければと思うのだが・・・ついつい!
そこで、今日もインタビューの一部を!
・若杉友子(わかすぎ ともこ)プロフィール
●野草料理研究家 ●食養指導者
1937年大分県生まれ。結婚後静岡市で暮らしていたときに、川の水の汚れを減らす石鹸運動などのさまざまなボランティア活動を行う。
そのなかで、自然の野草の力に着目。食養を世に広めた桜沢如一の教えを学び、1989年、静岡市内に「命と暮らしを考える店、若杉」をオープン。そこで開いた料理教室は、またたく間に大人気となった。
1995年、自給自足の生活を実践すべく、京都府綾部市の上林地区に移住。
出口春日氏が主催する「若杉友子の料理教室」(綾部市)、中村陽子氏が理事長をつとめるNPO法人「メダカのがっこう」の野草料理教室やセミナーなどで活躍。
全国を駆けめぐり、陰陽の考えにもとづいた野草料理と、日本の気候風土に根ざした知恵を伝え続けている。
・ーーー:若杉さんのこの感性って、どうやって培われたものなんでしょうか。
●若杉:若いときは貧乏が当たり前で、だんだん豊かになってきたときに、肉体と精神もそれに伴って変わっていく体験をしてる。その辺に炒り豆が落ちてるのを拾って食べる生活だったのが、そのうちここでもごちそう、どこでもごちそう。このままでは自分がとんでもない方向、欲の強い悪魔的な考え方に変身していきそうで、ブレーキをかけなきゃと思った。それで、まずは近所の川の掃除を1年間続けた。川が汚れて悲しくて私の魂が泣いてたからね。1人でダンプに何杯分もゴミを拾った。次の1年間は、老人ホームのシーツ替えとお掃除にボランティアで通った。おばあちゃんと おじいちゃん達に声をかけて歩き、手を握ったり髪なでたり話しかけると涙流してよろこぶの。そこで色んな人間模様、人生の縮図を見せてもらった。次は5年半、お年寄りの家に週2回お弁当を配って歩いた。マクロビオティックの桜沢如一先生の本に出会ったのはその頃。桜沢先生が、「どうやってこんなすごいことを研究したのか」と外国で問われたときに、「僕は研究してない。日本の祖先がつくった食文化を再発見して、世界の人に知らせてるんだよ」って答えてる。陰性な野菜を、塩や火を使って陽性化して食べる食養の知恵や、促成ではない昔ながらの醸造でつくった調味料の大事さを私も伝えたくて、静岡にお店をもって大繁盛してたの。でもあっさりと店を たたみ、こうして山に入ったのが8年前。ここの暮らしは最高よ。水は天からのもらい水でタダ。冷蔵庫なんて要らない、土間の竈(かま:1 土・石・煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。)や七輪(しち‐りん:《価が7厘ほどの炭で間に合うの意からという》炭火をおこしたり、煮炊きをしたりするための簡便な土製のこんろ。)で料理して、薪で五右衛門風呂。米も野菜も梅干しもみんな手作り。冷え込む冬も、火鉢や豆炭のコタツで、窓を開けっ放しで外の雪を見るの。春夏秋冬、天地の青春を楽しんで生きてるって感じよ。明日死んでも悔いない。すべてこの私が選んできた行動なのよ。
思いがあれば、誰でも成就できるのよ。思いは岩をも貫いちゃう位だから、必ず成就できるの。あんたがまだ成就できてないということは、自分の魂磨き、修行が足らんということ。人生は苦労しないとな。山あり谷あり、陰アリ陽あり、一つひとつクリアしながら、自分を鍛えておかないと。何かの時に弱くなっちゃうから。すぐにあきらめたり。昔の女は大和撫子といって、掴んだら死んでも離さない強さがあったものよ。
・「そぎ落として楽になる」
人生は心地よく、機嫌良く、生きてるのが一番。だって楽しい所なんだものここは。地球というのは実に楽しいところ。とどのつまりは、機嫌よう生きて通れば一番いいわけで。あれこれ色々やることない。ただこの時代、あまりにも物事が曇っちゃって、魂が曇りすぎて、闇のように色んなことが皆わからなくなっているものだから、私は料理を通してお話ししてるだけ。料理の先生といわれても困るのよ。料理は私の人生のパフォーマンス。それでお金を稼ごうとは思わない。これは小さじ何杯とかカップ何杯とかじゃなくて、全部直感なのよ。その日の疲れ具合で、塩加減だって 違ってくるんだから。「この草は食べるとどこに効くんですか?」、そんなのアホか。机の上でお勉強して何になるの。「教育」はいらないのよ。昔の子は教わらなくても親の後ろ姿で育った。自分が汗と水を流して体験して、余計なもの捨てて取り外していくことが悟りなのよ。みんな自分に色んなものをくっつけようとしすぎ。本物をやっていったらいいのよ。真実真理だけを。そぎ落としたぶん、楽になるから。
とらわれなくていい。信仰したり、こだわらなくても。こう生きねばとか、こうあらねばならぬとか、そんなものはない。自分が歩きたい創造の世界を歩いてゆけばよいだけのこと。私が孫たちに手渡したいのはその切符なの。
世の中は色んな幻想を創り出して、働かなくては生きていけないという恐怖心を植え付けられてる。ちっとくらいお金が仕事がなくて困ったなと思ったら、ホームレス1年間くらい体験したらどう?。やるなら楽しくやればいいの。引け目を感じる乞食なんかじゃなくて、堂々と。そうしたって充分生きていけるのよ。たとえ世の中がひっくり返ろうが。最低限の塩と米に野草食べて。良寛さんだって寺も持ってなかったんだから。お釈迦様だってそこらの道ばたで説いてたの。私も辻説法して歩きたいくらいよ。宗教にお金がかかるなんておかしい。それならこの大宇宙に金払いなさいよ。お天道様が金くれっていう? 何も請求しないやろ。金もらうのは人間だけやないか。人間が作った電気にはお金払うけど、太陽の光から作ったものには払わない。このおいしい水と空気。本当のものはタダなのよ。
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【夢を実現する今日の一言】
・志は、何もない時ほど立てやすい
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ー「今日は何の日」ー
☆記念日・行事・お祭り
●宝くじの日
☆歴史上の出来事
▼官吏が月給制に(1871),▼東京専門学校が早稲田大学と改称(1902),▼米艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印(1945),▼タイタニック号発見(1985)
☆今日の誕生日
▼伊藤博文(初代内閣総理大臣・1841),▼なかにし礼(作詞家・1938),▼国分太一(タレント・1974)
☆クローズアップ!
・宝くじの日 -- 当たっても1年過ぎたらパア
当選した宝くじの有効期間は1年、これを過ぎると当せん券もただの紙切れとなる。この時効防止キャンペーンの一環として第一勧業銀行が1967年に9(く)2(じ)のゴロ合わせでこの日を選定。ちなみに、時効となった当たりくじの年間総額は、258億円(1997年度分)だった。宝くじの前身は、江戸時代に行われた“富くじ”。明治政府のお達しで1868年(明治元)に禁止されたが、太平洋戦争中の1945年7月に軍事費調達のため“勝札”として復活。しかしその抽せん前に敗戦となって中断した。同年10月、“宝くじ”の名称で発行され現在に至る。正式名称は“当せん金付証票”。
☆今日の「誕生日の花と花言葉」(NHKのラジオ深夜便4時台)
・ミョウガ(ミョウガ科)
・忍耐
「きょうの一句」
・どの窓もいつか眠れる九月の夜(よ) 廣瀬直人(ひろせなおと)
☆~心に響く366の寸言~
【佳書と出会う (2)】
不幸にして佳人には会わず、佳山佳水に会わずとも、佳書にだけは会いたいものであります。
佳書によって、我々はしみじみと自分自身に話すことができるのであります。天地が壊れる時も、ああ天地が壊れると語れるのであります。これこそ天地の外に立つのであります。
今日の言葉~「安岡正篤 (やすおか まさひろ)一日一言」より(致知出版社刊)
☆9月 2日(日): 松下幸之助[一日一話]
【経営のコツをつかむ】
多くの会社の中には、非常にうまくいっているところもあれば、反対に行き詰まるようなところもある。うまくいっているところは従業員がみな優秀で、行き詰まるところはその反対かといえば決してそうではない。結局、そこに経営があるかないか、言いかえれば経営者が経営のコツをつかんでいるかどうかによって、そうした違いが生じてくるのだろう。その証拠に、経営者一人が代わることで、倒産寸前の会社が隆々と発展した例はいくらでもある。
経営のない会社は、いわば頭のない人間のようなものである。経営者が経営のコツをつかんでいる会社は力強く繁栄発展していくと思うのである。
タイトル:「たかきの独りごとパートⅡ」はブログ開設から 1135日
・9月1日のアクセス数 閲覧数:266PV 訪問者数:109IP
順位: 14,306位 / 1,758,298ブログ中(前日比➘) ※ランキングは上位20000件まで表示。先週(8月19日~8月25日)のアクセス数、ページビュー数3465 PV(先週比 1%増➚) 訪問者数910 人
URL:http://blog.goo.ne.jp/takaki_1947
※プロフィールの画像は、2012/05/17ー13:57ー阿蘇山(あそさん)(現噴火口のある山は「阿蘇中岳:1506m」)にて。阿蘇山(あそさん)は、熊本県阿蘇地方に位置する活火山。
・最新画像は、山口県下関市豊北町神田に在る角島大橋(つのしまおおはし)手前の展望所にて(2012/07/20-12:06頃-)映画や自動車のCMのロケ地としても使用される様な観光スポットである。天気が良ければ、青い空と透明度の高い海が楽しめます。
・交通アクセスは自動車の場合、自宅(R9とR191の交差点近く)よりR191経由で約120km位です。(一部山陰道の無料区間有り、萩⇔長門三隅間)この開通により以前よりは、少し楽になりました。
・角島
本州とは海士ヶ瀬戸で隔てられていたが、2000年に1780mの角島大橋が竣工。離島へ架けられた一般道路橋としては群を抜く存在である(沖縄県の古宇利大橋に次ぎ全国第2位)。島の北西に位置する夢ヶ岬に角島灯台が立ち、島のシンボルとなっている。戦前は下関要塞地帯の一角として旧日本陸軍の砲台陣地が置かれていた。現在も一部の遺構が残っている。
行政区分上は1889年の町村制施行時には豊浦郡角島村に属し、1955年の昭和の大合併で豊浦郡豊北町、2005年の平成の大合併で下関市の一部となる。
☆ユーザーさんの風景写真(北海道)より。ch33182写真枚数 100枚
★9月最初の日曜日の今朝は、晴れて良い天気となっています。早朝の気温は、22℃と相変わらず低かった。8月末より、急に陽気が変わり朝晩が涼しくなって来た。特に夜と朝晩が随分楽になった。従って、ここ最近はエアコン無しでOKである。昨日も未だ日向は暑いが、日陰や屋内は風が心地よく感じられる様になった。
当地でも8月下旬ごろから稲の収穫作業が始まったが、昨日の週末も稲刈りがあちこちで行われていた。9月に入り、なんとなく秋の訪れが感じられる。
先月申し込んだ「北海道ベストハイライト」の4日間の旅は、今日のチラシを見る限り出発決定で満席となっていた。従って、申し込みが遅かったのでギリギリだったのだろう。北海道は今回で5度目だが、宇部空港利用と旭山動物園が初めてである。出発日まで一ヶ月少々有るが、早くも北海道に興味が湧いてきている。連日過去の写真や、ユーザーさんのフォトチャンネル等を見ている。色々条件が整えば、5年後位に再度マイカー利用で東北か北海道の旅をして見たいと夢見ているが?ツアーは楽で安くて行けるが、面白いのは自分達で企画し自己責任で行くのが楽しい。
昨日は、「ラジオ深夜便」で知った野草料理家の若杉友子さんのインタビュー記事をコピペしました。この記事を読んで、今我々が失った物や忘れた物等を教えてくれる様に思った。我々の子供時代は戦後で貧しく決して豊かでは無かったが、皆必死で働き夢が有った様に感じる。当時の我が家も、殆んど自給自足の生活だった。ツクシやスイバは食べた事は無いが、ヨモギや山菜(フキ・ワラビ・ゼンマイ)等は祖母が中心に作ってくれていた様に記憶している。調味料の味噌・醤油は自家栽培の豆から作っていた様だ。餅やおはぎは勿論の事、豆腐まで釜で炊いて作っていた(特別な日や晴れの日等)。我が家だけでなく、昭和20年代頃の農家では当り前だったのだろう。それから60年以上経った現代、食生活も随分と変わっている。「食べ過ぎに飲み過ぎ」に、注意しなければと思うのだが・・・ついつい!
そこで、今日もインタビューの一部を!
・若杉友子(わかすぎ ともこ)プロフィール
●野草料理研究家 ●食養指導者
1937年大分県生まれ。結婚後静岡市で暮らしていたときに、川の水の汚れを減らす石鹸運動などのさまざまなボランティア活動を行う。
そのなかで、自然の野草の力に着目。食養を世に広めた桜沢如一の教えを学び、1989年、静岡市内に「命と暮らしを考える店、若杉」をオープン。そこで開いた料理教室は、またたく間に大人気となった。
1995年、自給自足の生活を実践すべく、京都府綾部市の上林地区に移住。
出口春日氏が主催する「若杉友子の料理教室」(綾部市)、中村陽子氏が理事長をつとめるNPO法人「メダカのがっこう」の野草料理教室やセミナーなどで活躍。
全国を駆けめぐり、陰陽の考えにもとづいた野草料理と、日本の気候風土に根ざした知恵を伝え続けている。
・ーーー:若杉さんのこの感性って、どうやって培われたものなんでしょうか。
●若杉:若いときは貧乏が当たり前で、だんだん豊かになってきたときに、肉体と精神もそれに伴って変わっていく体験をしてる。その辺に炒り豆が落ちてるのを拾って食べる生活だったのが、そのうちここでもごちそう、どこでもごちそう。このままでは自分がとんでもない方向、欲の強い悪魔的な考え方に変身していきそうで、ブレーキをかけなきゃと思った。それで、まずは近所の川の掃除を1年間続けた。川が汚れて悲しくて私の魂が泣いてたからね。1人でダンプに何杯分もゴミを拾った。次の1年間は、老人ホームのシーツ替えとお掃除にボランティアで通った。おばあちゃんと おじいちゃん達に声をかけて歩き、手を握ったり髪なでたり話しかけると涙流してよろこぶの。そこで色んな人間模様、人生の縮図を見せてもらった。次は5年半、お年寄りの家に週2回お弁当を配って歩いた。マクロビオティックの桜沢如一先生の本に出会ったのはその頃。桜沢先生が、「どうやってこんなすごいことを研究したのか」と外国で問われたときに、「僕は研究してない。日本の祖先がつくった食文化を再発見して、世界の人に知らせてるんだよ」って答えてる。陰性な野菜を、塩や火を使って陽性化して食べる食養の知恵や、促成ではない昔ながらの醸造でつくった調味料の大事さを私も伝えたくて、静岡にお店をもって大繁盛してたの。でもあっさりと店を たたみ、こうして山に入ったのが8年前。ここの暮らしは最高よ。水は天からのもらい水でタダ。冷蔵庫なんて要らない、土間の竈(かま:1 土・石・煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。)や七輪(しち‐りん:《価が7厘ほどの炭で間に合うの意からという》炭火をおこしたり、煮炊きをしたりするための簡便な土製のこんろ。)で料理して、薪で五右衛門風呂。米も野菜も梅干しもみんな手作り。冷え込む冬も、火鉢や豆炭のコタツで、窓を開けっ放しで外の雪を見るの。春夏秋冬、天地の青春を楽しんで生きてるって感じよ。明日死んでも悔いない。すべてこの私が選んできた行動なのよ。
思いがあれば、誰でも成就できるのよ。思いは岩をも貫いちゃう位だから、必ず成就できるの。あんたがまだ成就できてないということは、自分の魂磨き、修行が足らんということ。人生は苦労しないとな。山あり谷あり、陰アリ陽あり、一つひとつクリアしながら、自分を鍛えておかないと。何かの時に弱くなっちゃうから。すぐにあきらめたり。昔の女は大和撫子といって、掴んだら死んでも離さない強さがあったものよ。
・「そぎ落として楽になる」
人生は心地よく、機嫌良く、生きてるのが一番。だって楽しい所なんだものここは。地球というのは実に楽しいところ。とどのつまりは、機嫌よう生きて通れば一番いいわけで。あれこれ色々やることない。ただこの時代、あまりにも物事が曇っちゃって、魂が曇りすぎて、闇のように色んなことが皆わからなくなっているものだから、私は料理を通してお話ししてるだけ。料理の先生といわれても困るのよ。料理は私の人生のパフォーマンス。それでお金を稼ごうとは思わない。これは小さじ何杯とかカップ何杯とかじゃなくて、全部直感なのよ。その日の疲れ具合で、塩加減だって 違ってくるんだから。「この草は食べるとどこに効くんですか?」、そんなのアホか。机の上でお勉強して何になるの。「教育」はいらないのよ。昔の子は教わらなくても親の後ろ姿で育った。自分が汗と水を流して体験して、余計なもの捨てて取り外していくことが悟りなのよ。みんな自分に色んなものをくっつけようとしすぎ。本物をやっていったらいいのよ。真実真理だけを。そぎ落としたぶん、楽になるから。
とらわれなくていい。信仰したり、こだわらなくても。こう生きねばとか、こうあらねばならぬとか、そんなものはない。自分が歩きたい創造の世界を歩いてゆけばよいだけのこと。私が孫たちに手渡したいのはその切符なの。
世の中は色んな幻想を創り出して、働かなくては生きていけないという恐怖心を植え付けられてる。ちっとくらいお金が仕事がなくて困ったなと思ったら、ホームレス1年間くらい体験したらどう?。やるなら楽しくやればいいの。引け目を感じる乞食なんかじゃなくて、堂々と。そうしたって充分生きていけるのよ。たとえ世の中がひっくり返ろうが。最低限の塩と米に野草食べて。良寛さんだって寺も持ってなかったんだから。お釈迦様だってそこらの道ばたで説いてたの。私も辻説法して歩きたいくらいよ。宗教にお金がかかるなんておかしい。それならこの大宇宙に金払いなさいよ。お天道様が金くれっていう? 何も請求しないやろ。金もらうのは人間だけやないか。人間が作った電気にはお金払うけど、太陽の光から作ったものには払わない。このおいしい水と空気。本当のものはタダなのよ。
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【夢を実現する今日の一言】
・志は、何もない時ほど立てやすい
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ー「今日は何の日」ー
☆記念日・行事・お祭り
●宝くじの日
☆歴史上の出来事
▼官吏が月給制に(1871),▼東京専門学校が早稲田大学と改称(1902),▼米艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印(1945),▼タイタニック号発見(1985)
☆今日の誕生日
▼伊藤博文(初代内閣総理大臣・1841),▼なかにし礼(作詞家・1938),▼国分太一(タレント・1974)
☆クローズアップ!
・宝くじの日 -- 当たっても1年過ぎたらパア
当選した宝くじの有効期間は1年、これを過ぎると当せん券もただの紙切れとなる。この時効防止キャンペーンの一環として第一勧業銀行が1967年に9(く)2(じ)のゴロ合わせでこの日を選定。ちなみに、時効となった当たりくじの年間総額は、258億円(1997年度分)だった。宝くじの前身は、江戸時代に行われた“富くじ”。明治政府のお達しで1868年(明治元)に禁止されたが、太平洋戦争中の1945年7月に軍事費調達のため“勝札”として復活。しかしその抽せん前に敗戦となって中断した。同年10月、“宝くじ”の名称で発行され現在に至る。正式名称は“当せん金付証票”。
☆今日の「誕生日の花と花言葉」(NHKのラジオ深夜便4時台)
・ミョウガ(ミョウガ科)
・忍耐
「きょうの一句」
・どの窓もいつか眠れる九月の夜(よ) 廣瀬直人(ひろせなおと)
☆~心に響く366の寸言~
【佳書と出会う (2)】
不幸にして佳人には会わず、佳山佳水に会わずとも、佳書にだけは会いたいものであります。
佳書によって、我々はしみじみと自分自身に話すことができるのであります。天地が壊れる時も、ああ天地が壊れると語れるのであります。これこそ天地の外に立つのであります。
今日の言葉~「安岡正篤 (やすおか まさひろ)一日一言」より(致知出版社刊)
☆9月 2日(日): 松下幸之助[一日一話]
【経営のコツをつかむ】
多くの会社の中には、非常にうまくいっているところもあれば、反対に行き詰まるようなところもある。うまくいっているところは従業員がみな優秀で、行き詰まるところはその反対かといえば決してそうではない。結局、そこに経営があるかないか、言いかえれば経営者が経営のコツをつかんでいるかどうかによって、そうした違いが生じてくるのだろう。その証拠に、経営者一人が代わることで、倒産寸前の会社が隆々と発展した例はいくらでもある。
経営のない会社は、いわば頭のない人間のようなものである。経営者が経営のコツをつかんでいる会社は力強く繁栄発展していくと思うのである。
タイトル:「たかきの独りごとパートⅡ」はブログ開設から 1135日
・9月1日のアクセス数 閲覧数:266PV 訪問者数:109IP
順位: 14,306位 / 1,758,298ブログ中(前日比➘) ※ランキングは上位20000件まで表示。先週(8月19日~8月25日)のアクセス数、ページビュー数3465 PV(先週比 1%増➚) 訪問者数910 人
URL:http://blog.goo.ne.jp/takaki_1947
※プロフィールの画像は、2012/05/17ー13:57ー阿蘇山(あそさん)(現噴火口のある山は「阿蘇中岳:1506m」)にて。阿蘇山(あそさん)は、熊本県阿蘇地方に位置する活火山。
・最新画像は、山口県下関市豊北町神田に在る角島大橋(つのしまおおはし)手前の展望所にて(2012/07/20-12:06頃-)映画や自動車のCMのロケ地としても使用される様な観光スポットである。天気が良ければ、青い空と透明度の高い海が楽しめます。
・交通アクセスは自動車の場合、自宅(R9とR191の交差点近く)よりR191経由で約120km位です。(一部山陰道の無料区間有り、萩⇔長門三隅間)この開通により以前よりは、少し楽になりました。
・角島
本州とは海士ヶ瀬戸で隔てられていたが、2000年に1780mの角島大橋が竣工。離島へ架けられた一般道路橋としては群を抜く存在である(沖縄県の古宇利大橋に次ぎ全国第2位)。島の北西に位置する夢ヶ岬に角島灯台が立ち、島のシンボルとなっている。戦前は下関要塞地帯の一角として旧日本陸軍の砲台陣地が置かれていた。現在も一部の遺構が残っている。
行政区分上は1889年の町村制施行時には豊浦郡角島村に属し、1955年の昭和の大合併で豊浦郡豊北町、2005年の平成の大合併で下関市の一部となる。
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