私は幼いころから乗物が好きで、買い与えられたリカちゃん人形やリカちゃんハウスに興味はわかず、サンダーバード基地やトミカ基地、プラレールをねだる様な子だった。
今でも鉄道博物館やモーターショーにはついつい足を運んでしまう。
幼い頃の列車の思い出は、青森の田舎へ行く時の上野から野辺地(のへじ)まで乗る夜行列車の「はくつる」
3段式の狭いB寝台、冷凍ミカンと木の皮で作った様な箱に入った独特の香りがする駅弁ともれなく付いてきたポリ茶瓶。その蓋がおちょこ型でそこへ茶を注いで飲んだ。
「はくつる」には食堂車が無く、駅弁の匂いが苦手だった私は食堂車への憧れが強かった。
そこで、離婚後初の母娘旅は、食堂車がある北斗星号で函館へ。🚃🚃🚃🚃🚃🚃🚃🚃
仕事での交通費精算したお金を1年以上貯め込んで、料金が下がる夏休みを過ぎた9月の週末を待ってJRが当時キャンペーンをしていた母子旅割でなんとか予算内に収まり実現。
JR様~~~~感謝、感謝❣️
しかし、当時娘は、なんといっても中学2年生の反抗期。更に、親の離婚の犠牲になり心が荒んでいる時期であった。家でも食事と自分の観たいTV番組を見る以外は部屋から出てこず、ほぼ会話をしない状態が続いていた。
旅行でも変わらず口は利かない、後ろをとぼとぼついてくる。遂に憧れの食堂車で二人でコースをいただくも、私のはしゃぐ気持ちとは裏腹に娘は、無言、無表情。
函館に到着しても、後ろをとぼとぼついてくる。欲しい物を見つけるとその店の前に立ち止まり、私に気づいてもらうのを待ち、私が近寄ると欲しい物を指さす。
買ってあげてもニコリともしない。朝市で海鮮丼を食べる時も塩ラーメン食べる時もソフトクリーム食べる時も無言、無表情。ある意味、徹底している娘に面白くなってくる私。
行きたい店があるとガラケーに「ラッキーピエロでハンバーガー」というようにメッセージが送られて来る。
但し、そんな娘が、旅行中に無表情を貫けなかったことが2度あった。
一つは、JR様キャンペーンのお陰で、旅館のお部屋には露天風呂がついており、風呂へのガラス扉は綺麗に磨かれていた。風呂から出る際に娘はその扉に気づけず、顔面をもの凄い勢いでぶつけたのだった。流石に声を出し、痛みに悶え、幸いたいした傷にはならずだったが、数分後には鼻のてっぺんだけが赤く腫れた。
もう一つは、函館山からの夜景を見に行った時だった。眼下には、予想を超えて美しい函館の地形がキラキラと浮かんでいた。それをじっとみつめていた娘が突然、両目からぽろぽろと大きな涙を流し始めたのだ。多くの淋しさや辛さを彼女に与えてしまい心を乱してしまっている事は覚悟していたし、親の離婚を経験している私もその気持ちは痛いほど分かる。
なのにそれでも離婚を選択せざるを得なかった訳で、当時の私は、慰謝料や養育費も貰えず、専業主婦から突然就職し、本当にこの子を幸せにしていけるのか不安な毎日で明日を考えてしまうと眠れなくなるような毎日というのが本当のところだった。弱くなっていいものであれば、娘と共に泣きたいというのが正直な気持ちだった。しかし、母たる者、娘に弱気を見せる訳にはいかず、中々泣き止まない娘に「美しいものに感動して泣くなんて素敵だね」と声をかけた。娘は「どんな感情で泣いているのか自分でも分からない。変だよね。」と言って笑いながら泣いていた。
彼女も強くなろうとしているのだと知り頼もしく、とてもとてもありがたいと思った。
この旅行から何年か経ち、彼女が社会人になってからだったか??ちょっとリッチな2人での沖縄旅行を実現させた。
夕食前の夕暮れにテラスで海を眺めながらシャンパンを飲んでいた時だった。
急に娘が、
「函館が二人での初めての旅行だったよね。あれでも私、とても嬉しくて、すごい楽しい旅行だったよ。あの時には言えなかったんだけど、ありがとうね。」と、ふわりと言う。
もう、あまりの不意打ちに私の心はドキュンとして、体内中の涙が胸の辺りから頭の上まで津波を起こしたような気持ちになってしまったが、
「そう、それは良かった」と、必死にさらっと装って返した。
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