実は今年の年明けから、私的なことではあるが、心に深手を負い中々浮かび上がらずにいる。モヤモヤした日々は、時間薬で治すしかないと思うものの、それはそれでちょっと、しんどい。
気分転換にとサントリ―美術館の「歌枕」という展覧会に足を運んだ。古来より、日本では湧き起こる思いを人は移り変わる自然のさまなどに託し、和歌として詠み、その歌に詠みこまれた名所、地名のことを「歌枕」と言う。現代でも吉野と聞けば「桜」、三保の松原と聞けば「松林海岸の向こうに富士山」と浮かぶ人が多いだろう。現代のようにだれもが 気軽に旅する事が叶わなかった時代に、歌に詠まれた名所を大和絵から末は浮世絵に描き、更には硯箱、器や櫛、着物等々の意匠へと描かれ、写真が無い時代にそこへ行ったことがなくても、龍田川といえば「紅葉」、宇治といえば「宇治川にかかる橋、柳、水車、網代」と知られるようになり、観光名所として確立していったようだ。そのような事を知ると、普段気にも留めない硯箱というものも味わい深く、長い時間、見惚れてしまった。
単純な性格というのもあるが、やはり、知識を持つということは人生の楽しみを広げてくれるものだ。実に良い企画、構成の展覧会であった。
ただ私は、歌枕の武蔵野の生まれで、武蔵野といえば「竹林」と連想していたものだが、「ススキ」であるということを今回初めて知った。が、正直、未だにピンときていない。
歌枕ではないが、私が子供の頃の日本人が持つ外国のイメージには「自由」と言えばNY(米国)、「ファッション」と言えばパリ(仏国)、「独裁、恐怖」と言えば「ソビエト連邦」だった。東京にしても昭和の頃は、「浅草の雷門」や「東京タワー」を思い浮かべる人が多かったと思うが、現代の若者ならば「スカイツリー」や「お台場」なのかも・・・
きっとあらゆる多くの物に対して、持つイメージや価値はどんどん変わって行くのが当たり前の事で、また古からものを変わらず引き継いでいくという行為もそれはそれで素晴らしい。やはり色々な側面に目を向け、受け入れて感性を広げ楽しむべきだ。
天気は曇り空であったがジメジメと暑かったので、帰りに伊勢角谷麦酒の店に立ち寄ることにした。美味しいビールをいただくと、弟が十代の終わりの頃の事が頭を廻った。
ある日、洗濯をしようとリビングルームを通った私は、ひどくドロドロでしばらく洗っていないのだろう古びたジーンズが投げ置かれていたのを見つけた。
「もう、男の子って・・・」と思い、親切心で洗ってあげる事にした。庭の物干しに洗濯もの全てを干し終えて、夕方に取り込もうとすると弟のジーンズだけが無くなっている。帰宅した弟にそれを告げたところ、たいへんな剣幕でお叱りを受けた。ドロドロに汚れていたジーンズは、ビンテージものとのことで、価値が下がるから洗濯をしてはいけないこと、たいへん希少なものなので盗まれて当然であると云う事なのだ。彼の部屋には、他にも私から見ると薄汚れたボロ服にしか見えないジーンズやGジャン、竹のボタンがついて一部分が擦り切れたようなアロハシャツ等があり、値段を聞いて驚いた。知らないとか己の枠だけに囚われているとミスを犯すリスクがあると感じた出来事だった。
近年は、知らない事のリスクが一層顕著になっており、実にハードな時代だと思う。そんな時代を生きていると、歌枕のように平安時代の世から江戸時代までと形を変えながらでもしっかり繋がれていったものに安心というか慰められるような気持ちになるわぁ〜と、しみじみビールを味わった。
つまみは、初めてたべる「乳豆腐」という牛乳を豆腐のように固めたチーズのようなものを漬けマグロの湯引きに添えたもの。
これがまたまた優しくて、今日というこんなひとときが私を丸ごと癒してくれることに感謝した良い日だった。
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