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診察室へ入ると、先生は席について待っていてくれた。
挨拶をして席につくと、前回のカウンセリングの後、自分でいろいろ考えたかと聞かれた。
改めて性同一性障害とは何か、自分がそういう状態なのかどうかを確認しながら、記憶を辿ったり、自問自答を繰り返した、と答える。
「自分でそうだって確信して受診開始しても、みんな自問自答して深く考えていくものなのよ。若い人はとにかく早く診断確定して治療を開始したいって人がほとんど。ある程度年齢が高い人はその時点での社会的地位とか立場もあるから、経験値が高いだけにここで深く考えていく。影響大きいからね、反対の性別で生きていくっていうことは」
まさにその通り。
それまではただ単純に自分の身体に対する違和感のことばかり考えていたし、どうすれば払拭できるのか、違和感なく生きていくためには女性になればいいのかとか、実際の解決策ばかりに目がいっていたと思う。
カウンセリング自体は他のことで受けたことはあったが、性別違和についての受診自体初めてなので、前回のカウンセリングの後は今までにないほど深く掘り下げて考えていた。
正直なところ、反対の性別で生きていくこと自体をそこまで現実に当てはめて考えていなかったのだと思う。
先生に対して安堵感が高いのか、それとも自分が初めてここまで動いたことでの依存心があるのか、この先生には正直に胸の内を話すことができることがありがたい。
「前回は小さい頃に性別違和を感じたこと、当時の辛かったところを話してもらったんだけど、今日は当時、どういう時に自分が女の子みたいだなと思ったかを話してもらえるかな」
思い当たることはたくさんある。
前回も話したが、好きなおもちゃや遊び、色の好みが、周りの他の男の子と全く違っていた。
例えば色。
今はそんなこともないとは思うが、当時は男の子は青系、女の子は赤系が半ば自動的に割り振られる。トイレや鞄、洋服の色もそうだし、小さい子が使うちっちゃくて可愛いお箸やフォーク、スプーンもそうだ。
幼稚園の頃、お絵かきの時間に自分の好きなものの絵を描いてと言われて苺を描いた。
描き終わると先生が褒めてくれて、“よくできました”と書いてあるシールを貼ってくれる。男の子は青、女の子は赤のシールだった。
青いシールを貼られるのが嫌で、先生に赤いのを貼って欲しいというと、男の子は青でしょと言われてそのまま貼られた。好きになれなかった。
近所に住んでいる母方の伯母が、私が洋服を買ってもらえないのを知っていて、従姉妹と一緒に買いに連れて行ってくれた。デパートの子供服売り場には、男の子は全て青系の物しかなかった。選べずにいると、伯母が好きな色は何か聞いてくれた。赤とか桃色が好きと言うと、女の子の洋服が並んでいるハンガーと棚から好きな色の服を選ばせてくれた。
伯母の家につき、従姉妹と一緒に着替えた。薄いピンクのシャツと少し裾が広がったショートパンツ。嬉しかった。
そのままの服装で家へ帰った。叔母と従姉妹と一緒に家へ入り、母に新しい服を着た私を見せて、喜んでいる私の様子を話してくれた。しばらくして二人が帰ると、母は乱暴に服を脱がせ、天袋に放り込んだ。手が届かない。諦めるしかなかった。
幼なじみの男の子がいた。
家はすぐ近所で、そこの家族もよく知っていた。幼なじみは活発な男の子だった。いつも外で遊んでいるので、明るい時間はよく遊んでいる公園へ行けば、大抵そこにいた。
私がお家遊びが好きなことを知っていたので、遊びに誘う時は迎えに来てくれて、その子のお家で遊ぶようになっていた。
彼のお姉さんはかなり歳が離れていて、私たちが通う幼稚園の先生をしていた。いつも綺麗にお化粧をしていた。憧れの存在でもあった。
お家へ遊びに行くと、お姉さんがおやつを作ってくれたり、世話を焼いてくれた。
ある時、お姉さんの部屋で遊んでいると、三面鏡の前にお化粧品が並んでいるのに気がついた。ちらちらと見ていると、お姉さんが口紅をとって、私の唇へ綺麗に塗ってくれた。髪留めもつけてくれた。鏡に映る自分の顔を見た。控えめな赤色の唇が艶々になっていた。嬉しかった。
幼稚園の友達や、周りの人から、女の子みたいで可愛いと言われることが多くなった。色の好みも遊びも、服装も、自分が好むものは全て女の子のもので、それを選ぶ自分は普通のことだと思っているのに、周りからは“女の子みたい”と言われるのが不思議だった。
自分が女の子みたいな男の子だと自覚した。
「なるほどね。もうその頃には完全に性別違和があったっていうことよね。昔は男は青、女は赤って自動的に決まってたもんね」
「そうですね。馴染めなかったんですよ。もう何十年も前のことなのに、そういうことって覚えてるんですよね」
45年も前のことをよく覚えているもんだと自分でも感心したが、それほど違和感が印象深かったのだと思う。それを理解してくれた人とのこともよく覚えている。
「身体についてはどうだったの?」
身体的特徴。要するに生殖器だ。
そのくらいの歳頃だと、男女関係なく一緒にお風呂へ入ったりする。もっとも、自分の家では身体の洗い方だけ口で言われて、あとは全て自分でやるしかなかったので、覚えている範囲でも幼稚園生の頃から一人でお風呂に入っていた。姉は母親と一緒に入っていたが。
従姉妹の家にはよくお泊まりをさせてもらっていた。最初は母が何か用がある時などだけだったが、私がいない方が可愛い娘と二人きりで良かったのだろう、少なくとも週に二日はお泊まりに出されていた。
従姉妹の家ではいつも一緒にお風呂へ入っていた。叔母と従姉妹と私の三人で入り、お風呂の中で遊んだり、歌ったりするのが楽しかった。
お風呂で身体を洗っている時、従姉妹と私の身体が違うことに気がついた。伯母はこれが男の子、これが女の子と言って、わかりやすく教えてくれた。
不思議だった。なぜ私の身体には従姉妹と同じものが付いていないのか。ここが違うだけで男のと女の子は違うものと判別されることも不思議でならない。従姉妹が羨ましかった。
伯母は自分の胸を私に見せて、女の子が大人になるとおっぱいがおっきくなって、これで赤ちゃんを育ててあげるのよ、と教えてくれた。あなたもおっぱいで育ったのよとも言っていた。記憶になかったが、そう言うのであればそうなのだろうと思った。自分も大人になればおっぱいが出来て、股の間の変なものも女の子のみたいになるのかな、なればいいなと思った。
お風呂から上がると伯母は私の部屋着にと花柄のワンピースを用意してくれていた。パジャマも同じ柄で、たぶん伯母が手縫いで作ってくれたものだと思う。従姉妹は色違いで、二人でいると姉妹のようだった。
女の子のお洋服を着れば、私だって女の子になれるだろう、と思った。
「もうその頃から自分は女の子なのになんでっていう疑問があったんだね。性同一性障害の人って、特に幼少期にそういう感覚や考え方を持っていることが多いの。あなたの場合も当てはまるもんね。当時はもちろんだけど、童顔だから今も年齢よりかなり若く見えるし、多分青年期なんかもちょっといじれば女性に見られたんじゃない?」
中身は51歳のおじさん。
先生が言う通り、確かに若く見られるし、おばさん顔と言われるくらい、顔つき自体、厳つさがないらしい。加えて第二次性徴期に声変わりが遅く、喉仏は未だに全く出ていない。二十代の頃は声が高くて女の子みたいとよく言われていたので、当時は男として生きていかなければと思っていたこともあり、意識して低い声を出すようにしていた。
今は気にせず、普通のトーンで話をしているので音域が高くなってはいるが、加齢の影響で昔よりは低いとは思う。
「そういえば喉仏ないもんねぇ」
先生が前屈みになって私の喉元を見る。なんとなく照れ臭くて笑うと、先生も笑ってくれた。
ここで終了となった。
次回はもう少しあと、小学生の頃の様子を聞きたいと言われた。ここは複雑な事、嫌な事も多かったので少し気が重くなったが、話すことで共有感が出るからなのか、三回目のカウンセリングの日程を決めると、ちょっと楽しみに思えた。
帰りの車。
幼少期の事はとっくに乗り越えたものと思っていたが、先生に話したことで完全な過去として整理がついたような気がする。不思議なものだ。
次回は一ヶ月後。
それまでに話す内容を整理しておこうか。
いや、あえて考えないようにしよう。
今は夜ご飯の献立をどうするか。
ルームミラーに映った顔で、母親モードに切り替わったのがわかる。
安堵と高揚でアクセルを少し深く踏み込んだ。