今更改めて言うまでもないが、僕は「ドラえもん」という作品が大好きだ。
好きな話はもちろんたくさんあるが、同時にどうしても好きになれない、苦手な話というのもいくつかある。
いくつかある苦手な話の中で、悪い意味で際立って心に染みついてしまっている話がある。今回はそれを語ってみたい。
それは何かといえば、「チューシン倉でかたきうち」という話である。
10年以上前に初めて読んだ時から、この話はかなり苦手だ。
しばらくは本当に「大嫌い」と思っていて、ある時点からそこまでの苦手意識はなくなったものの、それでもやはりダントツくらいに苦手なのは変わりない。というか今でもこの話に限って言えば「嫌い」とはっきり言っていいんじゃないかと思う。
じゃあ何故そんな嫌いな話について語るのかといえば、気に入らないことをいっぺんちゃんと言葉で表現することでちょっと心をスッとさせるような効果はあると思うし、それを読んでくれた皆様からの共感や意見が欲しいという気持ちもあるのだ。
以下、この記事の読者の皆様は当該回を確認済みという前提であらすじなどは割愛して話を進めさせていただく。ご了承ください。
そして、今回は基本的に「俺はこの話のここが嫌いだ!」っていうのを書いていくだけになるので、あまり面白いものではないと思うし、そういうものが苦手な方などには向いていない内容になる。ご注意ください。
尚、この回はタイトルからも読み取れる通り「忠臣蔵」がモチーフになっていて、その流れを「ドラえもん」に置き換えてなぞっているからあのような筋書きになっている…ということは一応理解している。先に述べた通り、かつてほどの苦手意識がなくなったのもそれを知ったのが理由なのだが、同じく「忠臣蔵」をモチーフにしている別の作品には特にこうした不快感を覚えたことはないので「モチーフが忠臣蔵だから」というのが嫌いな原因の全てではないし、元ネタはともかくとして「ドラえもん」にこういった話があるのは間違いなく事実であるので、このまま語らせていただく。
さて、この回であるが、何が嫌かを簡潔に言えば、「非常に理不尽なことが起こっているのに、それが納得のいく形で回収されていない」と、これにつきる。
「ドラえもん」で理不尽事が起こることなんて珍しいことでもないと思われるかもしれない。しかし、大抵の場合はちゃんとその後納得のいく展開があったり、痛快な復讐劇によってカタルシスがあったり、話としての面白みがあったりするので、そこまで気にならないパターンが多いのだ。
しかし、「チューシン倉でかたきうち」は、理不尽事が起こっているのにそれに対しての「かたきうち」が納得のいくものではなく、しかも話自体もテンプレ的展開が続くだけで特別光るものがあるわけでもないため、結果的に読後の不快感のみが残る話になってしまっているのである(話としての面白み云々については人それぞれ感じ方次第なので、結局は好みの問題でしかないのかもしれないが)。
冒頭の展開は、余程のび太が嫌いとかじゃない限りは、誰もが嫌な気持ちになるだろうと思う。「ドラえもん」で度々見られる理不尽事の中でも、その刺激は随一レベルと言って良さそう。
そこから復讐に移る流れ自体は良い。最も求められる流れは「疑いを晴らす」というものであるが、そうでなくても何かしら痛快な復讐劇が期待される中でスネ夫が受けた報復は「ジャイアンに殴られる」のみ。疑いが晴らされていないから根本的解決になっていない上、実際に行われた復讐もカタルシスもなにもあったものではないのだ。
その後の流れも大いに不満ありだ。
スネ夫への復讐が終わった後のび太は、ママへの復讐をしようとする。
しかし、ここでドラえもんは「家族の間でそんなこと…」と今一つよくわからない理由で咎め、実際に復讐の実行役にさせられるとさらに怒る。
考え方にもよるが、冒頭の展開で最も問題があるのはある意味、ママだ。のび太が怒るのも、復讐したがるのも、至極当然のことだ。それなのに、ドラえもんが怒るというのが納得がいかない。
この話は、調子に乗ったのび太が最終的にしっぺ返しを受けるという「ドラえもん」の中ではお決まりのオチになっているのだが、この「ママへの復讐」が、しっぺ返しに向かう中でののび太の最初の悪事のように描かれているのが非常に気に入らない。
そしてここでもママが受けた報復はお花をメチャメチャにされただけで、こちらもこちらで全く根本的解決になっていないのだ。
それ以降の展開は、冒頭のスネ夫の展開はほぼ無関係になり、復讐の矛先がジャイアンに向かうことになる。例の展開はあくまで導入であり、話としては寧ろこちらが本題であるとも言える。ここではあまり特筆すべき点がないというか、言っちゃえばその導入部分に不満がありすぎてそれ以降の内容が頭に入らないというか。
無関係な人たちも巻き込んだのび太が調子に乗っていたのは間違いなかろうが、いかんせん導入部分の展開が可哀想すぎるせいで、オチのしっぺ返しがしっぺ返しに見えないという問題がある。
加えて、内容と直接は関係がないものの、この作品が掲載されたのが「小学六年生の3月号」であることも引っかかる部分である。
これが最終回というわけでは勿論ないが、とある一連の作品群にて、この話が最後にくるようになっているのは間違いなく、これが最後に読んだ「ドラえもん」だという読者も少なくはないはず(「学年繰り上がり収録」を採用している藤子・F・不二雄大全集の「ドラえもん」でも、7巻の最後に収録されているのがこのエピソードになっている)。
小六の3月号というのは、これから中学生になる読者が小学生で最後に読む学年誌であり、そこに掲載される「ドラえもん」もやはりそこを意識して読者へ未来に向けたメッセージがこめられたエピソードが掲載されることが多いというのはファンの間では有名だろう。「のび太もたまには考える」や「具象化鏡」など、具体例を挙げればわかりやすいと思う。そのエピソードがこの後味の悪い「チューシン倉でかたきうち」だというのが、残念感を加速させている。
個人的にも、エピソードの中に納得のいかない部分があっても、それより後のエピソードに何かしら良い描写があればある程度気持ちが浄化されることがあるのだが、「チューシン倉でかたきうち」ではそういったある種の"逃げ場"もないのだ。
以上、ざっと書いてみた。不快ポイントはほぼ前半のみに固まってはいるが、それでもやはりなんというか「ドラえもん」という作品の悪い部分を集約したような内容になっており好きになれないし多分今後も好きになることはない。
この「チューシン倉でかたきうち」が、悪い意味で話題に上がっているところは、比較的よく見かける。私の感じ方が異端だということはないはず。
長々と書いていつつ、改めて考えると、この回は少なくともてんとう虫コミックス全45巻中には収録されていない。藤子・F・不二雄先生がもう少し長生きされていれば、さらなる続刊に収録されていた可能性も否定はできないが、結果的には収録されていない。(基本的には)F先生自らが厳選したエピソードを収録しているてんコミにてこの回が外されているということは、F先生にとっても"そういう回"だったのかもしれない。
(それだけに、2014年に「ドラえもんプラス」6巻にこの回が収録された時には「なんでよりによって…」という気持ちがあったし、当時も今も「ドラえもんプラス」シリーズの6巻以降の続刊に対する怪訝な感情が消えない一因になっている)
しかしながらこの回は、内容の不快感は別として、話としてはよくまとまっていると言わざるを得ない。ドラえもんではてんコミ未収録作品を中心に、オチが弱いなど話としての完成度が今一つなエピソードもちらほらあるが、この回にはそういう弱みは感じられない。テンプレ的展開についても言い換えれば「王道」で、安定した内容とも言えるのだ。「忠臣蔵」を「ドラえもん」に置き換えてなぞった展開が秀逸だという声も聞いたことがある。だからこそ、「ドラえもんプラス」6巻に収録されたのかな、とも思う。
「ドラえもん」の漫画作品は1000話以上あるんだから、1話くらいはこういう回があったっていいのかもしれない。それはそうだが、個人的に恐れているのが(と言うのも大袈裟だが)、わさドラでアニメ化される時が来ることである。わさドラの歴史も長いが、今のところ「チューシン倉でかたきうち」はアニメ化されていない。
しかし、私の認識が間違っていなければ大山ドラでは2回アニメ化されているし(大山ドラも長い歴史の中で1回しかアニメ化されていない原作や全くアニメ化されていない原作など様々なので、複数回アニメ化される原作は優遇されている方であると言える)、プラス6巻にも収録され(てしまっ)ているので、数ある原作短編の中でも比較的目立つポジションにいると言って差し支えない。そのため、いつアニメ化されてもおかしくはない。
しかし、やはり漫画とはいえいささか刺激が強いのも確かなようだし、アニメスタッフもわざわざこの回を選んでアニメ化するというのを避けてるんじゃないかという気もしている(単なる気のせいで、そのうち普通にアニメ化されるかもしれないが)
果たしてどうなるか。