私が一番惚れこんだのは、松井先生が紡ぎ出された詩の世界です。
「雪の渡り鳥」の鯉名の銀平や「番場の忠太郎」のようにある特定の人物を描いているのではないので、「三味線旅がらす」の主人公がどういう人物でどういう過去があって今の境遇にいるのか、聴き手が想像の翼をいくらでも広げられます。
歌詞を再度貼りつけますね。
https://www.uta-net.com/song/92245/
※1番冒頭の「流れ長脇差 撥に換え」
このたった1行(!)だけで、やくざと言っても誰とも親分子分の関係を持たない一匹狼の渡世人が、足を洗って三味線弾きになったという主人公の人物像が描かれています。
どんな事情があったのでしょうか。
「風の吹きよで 掌返す」
そんな浮世にいるのがほとほと嫌になるような、手酷い裏切りを目の当たりにすることがあったのかもしれません。
次の2番の歌詞でおぼろげながら主人公の傷の元が明かされているように思います。
※2番で描かれているのは、過去に捨ててきた色恋沙汰です。でも捨て切れずに錆になって心の底に沈殿したまま2年の月日が流れました。
「縁でこそあれ 末かけて」
この曲が発表された日、ぷーこさんから「歌詞の意味が分かりましたか?」とメールをいただきました。ぷーこさん、覚えてらっしゃるかな?
自分では何となく分かったつもりでいましたが、改めてそう訊かれてみると、この「縁で〜」の部分だけが前後の文脈とニュアンスが違います。
「これは何かのフレーズをはめ込んだのかな?」と思い直してネットで検索すると、「『縁でこそあれ末かけて…』は、新内節『蘭蝶』の有名な一節」という解説に行き当たりました。
「縁でこそあれ 末かけて」の1行をご覧になって、すぐに新内と気がつかれた方もいらっしゃったでしょう。私は知りませんでした。
新内節には「蘭蝶」と「明烏」という代表的な作品がありますが、そのうちの「蘭蝶」は、男芸者の蘭蝶がお宮という妻がありながら吉原の遊女此糸と恋仲になる。それを知ったお宮が此糸に「夫とは『縁でこそあれ末かけて』と誓った仲である。どうか別れてくれ」と頼みこむという、有名な口説きの場面なのだそうです。
此糸は蘭蝶と別れることを約束しますが、結局二人は心中してしまいます。
「旅ゆけば〜」と来たら浪曲、「絶景かな絶景かな」と来たら歌舞伎、と同じように「縁でこそあれ」とくれば新内節というお約束になっているのですね。
「三味線旅がらす」のテーマは新内、と言われていましたが、松井先生は歌詞のどこにも「新内節」という言葉を入れずに、この曲のテーマをはっきりと示してみせました。
そして、もうひとつ。
主人公が語る「蘭蝶」は心中ものです。2番の前半で語られた主人公の過去の恋は、もしかすると心中の一歩手前で踏みとどまったような深刻なものだったのかも知れない。
主人公は「蘭蝶」を語りながら自分の過去の恋と重ね合わせているのかもしれません。
一般的に演歌の歌詞というのは、尺の都合で1番と3番だけ歌ってもストーリーが破綻しないように2番には無難な色恋物を差し込む構成になっていることが多いのですが、「三味線旅がらす」の2番はこれだけ中身が濃い、というか2番が全体の中で最も要の位置に置かれているような気がします。
※1番と2番で主人公の人となりは語り尽くされたし、3番はあってもなくてもいいくらいかな?と、長い間思っていました。
でも、違いました。
「粋がいのちのやまがた折り」がなぜ崩れるのでしょう?
(「やまがた折り」とは、糊を効かせた手拭いを頭頂部で山折りにする被り方のようです)
「粋」の乱れは、心の乱れの表れ。
春の雨が手拭いを濡らすだけではない、捨ててきたはずの過去の恋も思い出されて心が乱れるのではないでしょうか。
主人公の新内流しさんは、心の内に様々なものを抱えながら、そんな自分も世間も風のように受け流していくことで身につけた「気まま向くまま」の人生なのかなと、松井先生がサラッとお書きになった歌詞から勝手にイメージを膨らませた私の「三味線旅がらす」です。
サラッと書かれているようで、実は無駄な言葉は一言一句たりとも使われていません。
松井先生がどれほど丹精を込めて「三味線旅がらす」の詩を綴られたか、演歌の職人技の粋を見せていただいたような気がします。
ここまでは、松井先生の歌詞への賛辞。
次は曲とアレンジ、MV、「新内節」について私の思いを書かせていただきたいと思います。
というわけで、まだまだ続きます。