そこで、例年この日には「「いい夫婦の日」と仏教」などと題して記事を書くようにしているのだが、今年度はどうしたものか?仏教というのは本来、出家者の結婚などについては否定されているが、実は在家者に対する態度についても、結構微妙なこととなっている。例えば、以下のような記載はどうか。
媒人戒五 三時を具するに犯す。三時とは、一には此の家〈男、或いは女の家〉にして語を受け、二には彼の家に往て告〈男意を女に、女意を男に告〉、三には還り報ずるに犯す。〈中略〉已に離縁せる夫婦を和合せしむるも同犯。
「僧残」項、和田智満『比丘戒相略述』明治17年・4丁裏、カナをかなにするなど見易く改める
この「媒人戒」とは、男女関係の仲立ち(媒=仲人)をしてはならないという戒である。「僧残」であるから、「波羅夷」という教団追放ほどではないにせよ、反省し許されるためには幾つかの段階を踏む必要がある極めて重い戒である。なお、これは何故行ってはならないかというと、結果として僧侶が当事者となり、自分とは異性の者に意見を伝えねばならないからだとされている。よって、過ちが起きる可能性が増えるため、制定されたという。
そう考えると、日本の僧侶が結婚することについて、当然に違和感を懐かれる可能性があるといえるのだが、鎌倉時代の僧侶の結婚の実施(その一例として、浄土真宗の親鸞聖人の結婚は有名だが、親鸞聖人以外にも多数存在)と、明治時代以降の僧侶の結婚という問題がある。後者については、明治政府による通称「肉食妻帯令」(明治5年・太政官布告第一三三号)などの発令によって、僧侶の特権を剥奪する一環だったことが知られているのだが、むしろ、前者について確認したいところではある。
日本の場合、古来から一部宗派では結婚が行われてきた。今日はその辺も見ておきたい。
○問ふ、当流の僧侶は仏制戒に背き、何ぞ妻子を帯するや。
答ふ、仏も時に随ひ機に随ひて制許あり。
『真宗百通切紙』「卅九妻帯之事」、『真宗百通切紙』第2巻・11丁表、カナをかなにするなど見やすく改める
本書は、江戸時代初期から中期にかけて刊行され、明治期以降も重視された文献である。現場の僧侶からすれば、とても使いやすかったことがその理由と言えようか。
そこで、上記一節からすれば、本書の作者は、当時の見解として仏陀の「制許」には時期的な違いがあったことを指摘している。これは、後に本文中に出てくる「末法」との兼ね合いを前提とした見解だと言えよう。
それで問者は、「機」と「時」についてそれぞれ結婚を認める文脈があるか?と尋ねているが、答えについて「機」は『大智度論』を、「時」は『賢愚経』を挙げているようだ。特に前者は、『大智度論』巻35に出る「妙光菩薩」を典拠としている。
又た妙光菩薩、長者の女の其の身に二十八相有るを見て、愛敬心を生じ、門下に住在す。菩薩、既に到らば、女、即ち頸の琉璃珠を解いて、菩薩の鉢中に著け、心に是の願を作し、「我、世世に当たりて此の人の婦と為らん」と。
ここから、妙光菩薩が結婚していた、という話になっているようだ。それから後者は、以下の一節のようである。
仏又た言いて曰く、「若し檀越有りて、十六種に於いて別請を具足すれば、福報を獲ると雖も、亦た未だ多くとなさず。何をか十六と謂うや、比丘、比丘尼、各おの八輩有り。不如僧中、漫りに四人を請すれば、得る所の功徳、福は彼よりも多し。十六分中、未だ其の一にも及ばず。将来の末世、法、尽きんと欲するに垂とすれば、正に比丘を使わし、畜妻俠子なるも、四人以上ならば、衆僧と名字し、応当に舎利弗・目犍連等の如く敬視すべし」。
『賢愚経』巻12
どうも、ここからは、末世という「時」に於いては、妻や子供がいるような僧侶であっても、衆僧として扱い、舎利弗や目連のように敬えと示されている。なるほど、先ほどの『大智度論』と併せれば、結婚が認められているという風に、後代の仏教者が感じても致し方ない話かと思われる。
それで、結果として本書・本章の結論は次の通りである。
当流のこゝろ、我身無戒の時に生を受け、下根下知にして、戒行持ち難し。仏願の不思議にて、往生を遂げ、信じて他を謗るこゝろなし。
『真宗百通切紙』第2巻・12丁表
ここから、「無戒の時」という末法の世を前提にした議論であることが分かる。そこで、ここでいわれる「仏願の不思議」については、以下のように締めくくられる。
問ふ、末弟の僧、妻子を帯ても念仏往生疑い無きや。
答ふ、本願不思議、何ぞ疑わんや。其上、源空聖人云く、設ひ僧形と為ると雖も、妻子を帯は、即ち在家の僧なり。更に出家の思いを成すべからず。恒に身心に愧ぢ、深行を修すべし。但、邪婬を禁ずべきなり。一人猶お以て比丘行に非ず、況んや邪婬を行ぜんをや。空聖人妻子を許す言下に、禁有り。当流の僧、空の制を守るべきなり、云云。
前掲同著・13丁表~裏
多分、一番強調したいのはここなのだ。つまり、僧侶が結婚し、子供がいたとしても、救われるのか?ということである。少なくとも、上記一節を見れば、「本願不思議」によって、救われることに疑いを差し挟む必要は無いといっていることになるだろう。しかし、法然上人の言葉を引きながら、身心に恥じつつ、阿弥陀念仏を深く修行すべきであるという。それから邪婬(不倫)はよろしくないとしている。これは結局、信念を持って結婚などをするのは良いが、悪行に堕することは否定されているということになるのだろう。
ということで、今日という「いい夫婦の日」に因み、日本仏教の一部を学ぶ上で欠かせない、結婚問題を扱ってみた次第である。
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