保寧勇和尚示衆して、釈迦老子、四十九年の説法、曽て一字も道著せず。
『虚堂和尚語録』巻5「頌古」
これは、かなり説明的に示されているのだが、更に略して、「四十九年不説一句(或いは一字)」とのみ表記することもある。
仏、力めて四十九年不説一句を問うに如かず。
『景徳伝灯録』巻16
以上のように、禅宗では不立文字という主張がなされるに至るが、その中で釈尊が成道されてからというもの、一字一句をも説かなかった、という話になっていくのである。とはいえ、これは禅宗だけのオリジナルというわけでもなく、更に言えば、どうも典拠があるらしい。
且つ、世尊、涅槃会上に於いて曰わく、我が四十九年の説法、未だ曾て一字をも説かず。即ち首楞厳中に亦た曰わく、但だ言説のみ有りて、都て実義無し。
『楞厳経正説』「募疏」
つまり、釈尊は涅槃会上で、「我が四十九年の説法、未だ曾て一字をも説かず」と問いたというが、それと同じように、『(首)楞厳経』でも、「但だ言説のみ有りて、都て実義無し」と説いたという。なお、「四十九年」云々が、涅槃会上というのは良く分からないのだが、とはいえ、「四十九年」という数字からすれば、最晩年であることには疑いなく、よって、このように言われているのだろう。
それで、『楞厳経』ではどのようになっているのだろうか。
皆是れ識心分別の計度なり、但だ言説のみ有りて、都て実義無し。
『首楞厳経』巻3
同じような語句が、6箇所に出ているので、それのみ引いてみたが、以上の通りで、全て識心による分別によって作り出された概念に過ぎず、例えば「言説」も、その実義は無いとしている。この部分だが、やはり『般若経』系でも示されるものである。
若し諸もろの菩薩、定めて菩薩の浄戒を成就せざれば、是れ諸もろの菩薩、但だ虚名のみ有りて都て実義無し、応に知るべし、彼の類は菩薩と名づけず。
『大般若経』巻587
以上のような感じで、こちらは理念的ではなくて、実際的な話ではあるが、戒律を守らない菩薩は、虚名のみあって、実義が無いと批判しているのである。これを、『首楞厳経』では理念的に捉え直したということになるのだろう。
そうなると、説法についても、現象としての文字や音声は存在するにしても、その実体はないという意味になるだろう。ただし、以下のような説示を思うと、かなり原理的に捉えている印象がある。
世尊、涅槃に入るに臨んで、文殊、仏に再び法輪を転ずることを請す。
世尊、文殊を咄して言わく、吾れ四十九年世に住するも、曾て一字をも人に与えず。汝、吾れに再び法輪を転ずることを請えば、是れ吾れ曾て法輪を転ずると謂うなり。
『景徳伝灯録』巻12
以上の通りなのだが、これは結局、文殊菩薩とのやり取りという形で、仏伝を組み替えている。具体的には、文殊菩薩が、涅槃に入ろうとしている釈尊に対し、再度、法輪を転ずる、つまりは説法することを望んだ。すると、釈尊は文殊を叱って、「私は、49年間仏陀として世に存在したが、その間、一字たりとも他人に渡したことはない。もし、そなたが私に再び法輪を転じて欲しいと願うとなると、かつて法輪を転じたことになってしまう」と述べたのであった。何となく、言い掛かり的な感じもしないでもないが、こういう言い方は、一部の禅僧が好きだったことは間違いない。
結局、不立文字の真理を纏った仏陀観ということになるのである。
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