つらつら日暮らし

「第一官律名義弁」其十九(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・19)

ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。現在は日本の役職となっている。

一 法頭
推古天皇三十二年四月戊午、詔して曰く、夫れ道人尚お法を犯す、何を以て俗人をば誨へん、故に自今已後、僧正・僧都をば任し、仍て当に僧尼を検校すべし、壬戌、観勒僧を以て僧正と為し、鞍部徳積を以て僧都と為し、即日、阿曇連〈闕名〉を以て法頭と為す〈紀廿二〉。
    『緇門正儀』10丁表~裏、訓読は原典を参照しつつ拙僧


以上の通りであるが、注目したいのは「法頭」である。いや、他の僧正・僧都の件は、結構知られた話であって、制定の理由は以下の通りである。

(推古天皇)卅二年、夏四月丙午朔戊申、一僧有りて、斧を執りて祖父を毆す。時に天皇、之を聞きて大臣を召して、之に詔して曰く「夫れ出家は、頓に三宝に帰し、具さに戒法を懐く。何ぞ懺忌無く輙く悪逆を犯さん。今、朕聞くに、僧有りて以て祖父を毆す。故に、悉く諸寺の僧尼を聚めて、以て推して之を問う。若し事実ならば、之は重罪なり」。是に於いてか、諸僧尼集まりて、而も之を推す。則ち悪逆の僧及び諸僧尼、並びに罪を将つ。
    『日本書紀』巻廿二「推古天皇」項


このように、推古天皇の時に僧侶による殺人事件が発生してしまい、僧侶は戒律を守るものだと思っていた天皇は大きな衝撃を受け、自ら取り締まろうとしたとされるが、それを観勒が止めたところ、かえって僧正に任命され、仏教界は自ら自浄作用を発揮しなければならなくなった。

ところで、個人的にはこの時、僧都に任じられた鞍部徳積と、法頭となった阿曇連がどういう人だったのかが気になるのだが、記録上ここに名前が出てくるだけだったのだろうなぁ。そのため、本来は法頭を考える記事だったのに、深まりもしないという体たらく。いや、後代の人を調べればまだ大丈夫か?

即ち来目臣〈闕名〉・三輪色夫君・額田部連甥を以て、法頭と為す。
    『日本書紀』巻廿五「孝徳天皇」項


これは、大化元年(645)8月のことだが、孝徳天皇は各寺の僧尼を集め、改めて仏教を興隆していくことを宣言し、その上で「十師」という僧侶を代表する指導的立場の者を任命し、更に「法頭」を任命したのであった。

それから、次回(のみで収まらないかもしれないが)はかなり大物で、「四位十三階」という僧侶への位階の話が詳しく載っている箇所を学んでみたい。

【参考資料】
釈雲照律師『緇門正儀』森江佐七・明治13年

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