つらつら日暮らし

菩薩戒の戒師とは出家者か?在家者か?

こんな一節を見出した。

 問う、菩薩戒の師、在家人を用いると為すや、出家人を用いると為すや。
 答う、道俗に通ず。瓔珞経に云く、夫妻六親、互いに師と為ることを得るなり。
    吉蔵『勝鬘宝窟』巻上之末


さて、この一節を見る限り、菩薩戒を授ける「戒師」には、在家人でも出家人でもなれるとしている。そして、その根拠として『菩薩瓔珞本業経』の一節を挙げている。これは以前、【『菩薩瓔珞本業経』の「夫婦六親得互為師授」について】という記事で紹介した通りである。

そして、中国三論宗の吉蔵(549~623)は、それまでに中国で成立していた『瓔珞経』を用いて、上記の結論を見出している。

ところで、いつも思うことだが、菩薩戒を受けることとは本来、菩薩以外から菩薩にするための受戒であって、例えば在家から出家へ、という立場の移動を意味するのではない。それから、在家人でも戒師になれるという点について、そもそも菩薩戒では、眼前の師匠の有無自体が問われるのである。

 問う、第三に仏像前に於いて受戒するに、若し仏像無ければ、自誓受を得るや不や。
 答う、普賢観経に依らば、但だ虚心に奉請すれば、釈迦を和上と為し、文殊を闍梨と為し、弥勒を教授師と為す。一切仏を尊証と為し、一切菩薩を同学と為す。有像無像を論ぜざるなり。
    前掲同著


菩薩戒に於ける自誓受戒の時に、仏像を要するというのは、例えば『梵網経』でも『瓔珞経』でもともに、「仏・菩薩形像の前に於いて」などと示されるので、一般的には必要だと思われるのだが、上記の通り吉蔵は仏像すら要らないという主張であり、その際に典拠としては『観普賢菩薩行法経』に於ける一節を挙げている。

なお、『観普賢菩薩行法経』では、「行者、若し菩薩戒を具足せんと欲する者は、応当に合掌して在空閑処に遍いて在す十方仏を礼し、諸罪を懺悔し、自ら己過を説き、然る後に静処にて十方仏に白して是の言を作し……」とあるように、菩薩戒を受ける場合には十方仏への礼拝、懺悔などを行うのだが、ここに明確な仏像などは存在していない。

よって、仏像すら要らないとするのなら、眼前の師の人間の立場なども関係ないことになるというのも、理解は出来る。ただし、果たして、これで真っ当な受戒が成り立つのかどうかというと、当方の個人的な感触としては、やはりしっかりとした高徳の僧から受戒した方が良いと思っている。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事