仏の功徳をうけとりては衆生仏になり、衆生の罪をうけ取ては仏可堕獄、以大悲代受苦の條、尤不審也。
『釈尊讃嘆説法詞』
この一節は、仏教に於ける「罪業」論についても使えるので、色々と学ぶべき文脈だが、今回は「代受苦」について検討してみたい。つまり、仏と衆生との関係について、仏の功徳を受け取ると、衆生は仏に成るが、一方で、衆生の罪を受け取った仏は、地獄に落ちるという。それを「大悲を以て代わりて苦を受く」というが、それを「不審」だとしている。
この文脈全体を語ると、逆に問題意識から離れてしまうので、まずはこの語句に注目したいが、典拠は以下の通りである。
衆生若し名を聞けば、苦を離れて解脱を得、
亦た地獄に遊戯するは、大悲もて代りて苦を受く。
『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』
原出典はここだろうが、上記一節は後にも『宗鏡録』などで引用されているので、孫引きかもしれない。なお、『釈尊讃嘆説法詞』では「仏可堕獄」とあるが、上記の典拠では「若しくは善男子・善女人、四部の弟子、観世音菩薩の名号を聞き得れば」とあって、仏ではなく、観世音菩薩のことなのである。そして、上記の『請観世音菩薩陀羅尼呪経』の一節は、曹洞宗では『観音懺法』でも使われており、やはり観音信仰のようだが、いやまてよ?!「代受苦」はどこか、地蔵菩薩のイメージがある。
満米上人の篁公に頼て冥府の戒師と成り、代受苦の地蔵尊に遇ひ物語りし玉ふこと……
吉岡信行老師『求化微糧談』巻7
とりあえず、満米上人と小野篁に関する説話は、以下のサイトをご覧いただければ良いと思う。地蔵菩薩の「代受苦」イメージは、六道の衆生を救済するため、例えば三悪道の衆生を救うために地蔵菩薩が代受苦されるのである。
・矢田寺 満慶上人と地蔵菩薩(ブログ:京都を歩くアルバムさん)
それで、この「代受苦」という言葉、他にも出てくるのだろうか?
目連、若し是の因縁有りて、衆生を得度すべし、我れ能く尽く代りて、諸もろの衆生をして、大地獄を出さしむ。我れ代りて苦を受け、一えに地獄に入る、諸もろの衆生の作る所の罪業尽きれば、我れ爾の時、心に憂悔無し。
『大宝積経』巻79「富楼那会第十七之三大悲品第六」
あ、『釈尊讃嘆説法詞』で引かれていたのは、この一節か。なお、「代受苦」の思想的基盤は、「大悲代受苦」の通りで、大悲心になる。この「大悲心」とは、大乗仏教で説かれる菩薩の慈悲心の様子である。
良以、悲心、智慧を熏じて能く他苦を抜き、慈心、禅定を熏じて能く他に楽を与う。
『妙法蓮華経玄義』巻6
これが、代受苦に繋がる教えらしい。そうなると、「代受苦」は、抜苦与楽として展開され、先ほど見たように、他の衆生の苦を背負うことで抜苦し、他の衆生に解脱を得させるので与楽になるのである。まぁ、大乗仏教の一展開ということで、理解しておきたい。
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