つらつら日暮らし

『幻住庵清規』「開甘露門」に見る「五戒」について

『幻住庵清規』というのは、中国臨済宗の中峰明本によって開かれた幻住庵の清規であり、日本の禅宗にも一定の影響を与えたものである。それで、その末尾には「開甘露門」という施食作法が収録されているのだが、そこに以下のような一節が見える。

我れ今、首めに諸仏子の為に罪障を懺滌し、然る後に帰依三宝し、乃ち五支の浄戒を与授して、四弘誓願を具え、菩提道心を発さしむ。如上の仏事、当処に周円す。
    「普施法食文」


このようにあって、つまり、この「施食作法」の最初に、諸仏子のために懺悔・三帰戒・在家五戒・四弘誓願・発菩提心という仏事を行うとしているのである。拙僧的な関心は、この仏事の対象が誰なのか?ということである。もし、目の前にいる随喜の在家衆のみ(五戒を授けているのだから、在家衆である)であったとすれば、別段面白くもない。要するに、戒を受け、その功徳を回向して、更なる供養を行うような趣旨になると思われるためだ。

なお、「五戒」の与授について、以下の一節を見ていきたい。

 汝、諸仏子、既に爾るに仏を称して師と為す。当に如来の浄戒を稟受すべし。我れ今、教に依りて汝の為に五支の浄戒の相を宣説す。
 夫れ不殺生、是れ五戒の相なり。原ぬるに夫れ、殺生は瞋業を以て本と為す。瞋業既に盛んにして殺害滋く多し。命命相い展転して酬償を負う。自ら殺し人を教えて殺さしむ。殺心除かざれば輪迴断ぜず。是の故に尽形に殺生せざらしむ。
 不偸盗、是れ五戒の相なり。原ぬるに夫れ、偸盗は貪業を以て本と為す。貪業、未だ偸心不妄を尽くさず。機関暗に啓き恐怖、横ままに生ず。遇去・未来、互相いに酬報ず。自ら偸み人を教えて偸ましむ。偸心不息ならば塵離るるべからず。是の故に尽形に偸盗せざらしむ。
 不婬欲、是れ五戒の相なり。原ぬるに夫れ、婬業は痴毒を根とす。愛水に溺心して化して火とならんとす。受形稟命して斯に由らざる莫し。自ら婬し人を教えて婬せしむ。婬心除かざれば塵何ぞ尽きること有らん。是の故に尽形に婬欲せざらしむ。
 不妄語、是れ五戒の相なり。原ぬるに夫れ、妄語は如上の殺盜婬の業、交相いに隠覆して自知せざる。虚妄成就して妄業既に成る。復た貪等に資す。自ら妄にして人に教えて妄ならしむ。纏縛の生死、安くにか出期有らん。是の故に尽形に妄語せさらしむ。
 不飲酒、是れ五戒の相なり。原ぬるに夫れ、飲酒能く正念を昏じて能く正心を乱らしむ。昏乱無き時、邪謬交いに作る。如上の四戒、之に因りて生ず。寧ろ毒薬を飲んで酒味を貪ること莫れ。自ら飲み人を教えて飲ましむ。言を尽くして酒過劫に積み窮り莫し。是の故に尽形に飲酒せざらしむ。
 名教に言えること有り。五戒持たざれば、人天の路絶す。然るに五戒の外、復た十無尽戒・四十八軽垢戒・二百五十種大戒、及び三聚具足浄戒有りて窮極有ること無し。人の海に入りて漸入漸深なるが如し。汝、但だ信心退せざれば則ち諸戒自然に心に入るものか。
    同上、訓読は拙僧


以上の内容である。そこで、ここで五戒の戒相についての説示が主な内容であるが、簡単に調べた限りでは、全体としては当清規のオリジナルな文言らしい。それから、不殺生・不偸盗・不婬欲を、それぞれ「貪瞋痴の三毒」を関連させることは、大乗『大般涅槃経』にも出てた気がするが、どうだったかな?

さておき、要するにこの内容については、五戒を教え、その護持を説くものであるといえる。また、「五戒持たざれば、人天の路絶す」とあることから、六道で輪廻する衆生全体に向かって説いたものではないことが明らかなので、この一節は結局、この施食の供養に集まってきた在家衆相手に説いたものだと理解出来るといえよう。

だとすると、結局別段面白くない。

文脈として、明確にこうといえるわけでもないようだが、つまりは、施食の供養をする前に、お集まりいただいた皆さんも、身心ともに清浄になっていただいて・・・という話なのだろう。或いは、在家五戒を授けるのに、先祖が来世で苦労している様子を示しながら説いたとすれば、なるほど、意味があることかもしれない。或る種の「勧戒」とも言えなくないからだ。まぁ、脅迫的言動になっているのは、如何ともし難いところではあるが・・・

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