○日域は小国なり、人の心麁強にして、持律坐禅の器量、上古よりまれなりけり、大権の垂迹上宮聖霊、伽藍を立て、僧尼を度し玉ひしかども、五戒の分なりけり、わづかに経論を学し、時至りて大唐の龍興寺の鑑真和尚渡りたまひて、観世音寺・東大寺・薬師寺、三つの戒壇を立て、如法の十師具足の比丘戒の作法ありけぢ、行基菩薩等の高僧はじめて古き五戒分をあらためて、受戒ありけりと云へり、
和尚在世わづかに十年、諸寺皆朝々食長斎なりける、いくほどなく日中に非時と云ふて用ゆ、なほ夕方事と立て、南北の諸寺長斎の事すたれたり、これ律儀の立がたきゆへ歟、
近き頃、我が禅法の師、渡唐して、如法律儀伝受、北京の中興の事なり、南都またそのヽち招提寺・西大寺に如法律儀行する事、時至ればか、これも次第にすぐれ行ずべき歟、
『雑談集』巻8「持律坐禅之事」、無住道曉禅師『雑談集(末)』巻8・13丁裏~14丁表、カナをかなにするなど見易く改める
まず、上記の一節について簡単に訳しておきたい。無住禅師は、日本は小国であるとしている。この場合、国土の大小もあるだろうが、それよりも住んでいる人の機根の問題を論じていると見た方が良い。つまり、人の心が粗っぽく、持律し坐禅するような人は、古来より稀であったとしている。
大権菩薩の垂迹としての上宮聖霊(聖徳太子のことである)は伽藍(法隆寺や四天王寺のこと)を立てて、多くの僧尼を出家者にするように助力したけれども、それはまだ「五戒」を守る程度のことであった。そして、自身は多少は経論を学ぶ程度であった(恐らくは『三経義疏』のことを指すのであろう)。
奈良時代になって、大唐の龍興寺から、鑑真和尚が日本に渡ってきて、観世音寺・東大寺・薬師寺に3つの戒壇を立てて、如法に比丘十師が具足した比丘戒の作法が行われたことで、行基菩薩などの高僧であっても、初めて古くから守っていた五戒の分を改めて、(比丘戒の)受戒をされたのである。
鑑真和尚が日本で活動されたのは、わずかに十年ほどであったが、諸寺では皆、朝のみの食事を行い、長斎を守るようになった。しかし、その後、大した時間もかからずに、日中には「非時」といって本来、正午までしか食事が出来ないのに、それを守ろうとせず、また、「夕方事」という言葉も出来て、夕食も食べるようになった頃には、奈良・京都の諸寺では、長斎のことは廃れてしまった。
最近では、私の禅法の師匠(京都東福寺開山・円爾禅師を指すと思われる)が中国に渡り、如法の律儀を伝授し、京都での持律を中興された。奈良ではその後、唐招提寺や西大寺で如法に律儀が行われるようになったのも、時が至ったためであろう。これも次第に優れているので、行うべきである、とでも出来ようか。
色々と問題が無いわけでは無い。まず、無住禅師は鑑真和上来日前の日本で、「五戒(在家者への戒)」のみを守っていたと思っているようだが、なるほど、聖徳太子はそうかもしれないが、行基菩薩などは、自誓受戒を通した沙弥戒・菩薩戒などを守っていたと思われる。ただし、ここでいう「律儀」という観点からは、不足すること著しかったことは言うまでも無い。
そして、鑑真和上が伝えた当初こそは、「律儀」は行われていた(ここで例示されているのは「長斎」)というが、すぐに行われなくなり、それを京都では円爾禅師が中興し、南都(奈良)でも復古活動があったという風に讃えている。
無住禅師自身は、持律を目指そうとしていても、中々思うに任せなかったと述懐(『雑談集』巻3「乗戒緩急の事」参照)しているようだが、それでも、常に持律したいという願いのみはお持ちであった。その心境を表現した「乗戒緩急の事」章は中々に興味深い内容なのだが、機会を見て学んでみたい。
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