この下は、護法の厳重なるべきことを示す、微妙の法門の興るも廃るも、出家沙門の仏弟子にかヽるなれば、僧は福田ゆへに俗が尊重す、僧が自らを重じて、三学厳密なれば、如来の大法も重くなり、僧が破戒無慚なれば、法も自然と軽くなる、
僧は仏法中の当人ゆへに、内護と云ふ、俗の檀越は外から仏法を守護す、内護が善なれば帰依す、左なければ背くゆへに、内護の僧はつヽしまねばならぬ、この内護外護と云ことは、涅槃経の第三に出たり、
面山瑞方禅師『亀鏡文聞解』
江戸時代最大の洞門学僧である面山瑞方禅師は、三学厳密を弟子達に求めたことで知られている。それは特に、晩年に記したとも考えられる『信施論』などで非常に強く主張されるに至ったが、基本は若い頃から同様だったと見て良い。それで、以上の一節だが、『禅苑清規』巻8「亀鏡文」への解説提唱である。
然らば則ち法門の興廃、繋して僧徒に在り。僧、是れ福田なり。応に奉重すべき所なり。僧重なれば則ち法重なり。僧軽なれば則ち法軽なり。内護、既に厳なれば、外護、必ず謹ずべし。
『亀鏡文聞解』に従って訓読
ちょっと気付いたのが、『亀鏡文聞解』は「僧、是れ福田なり」なのだが、一部の系統では「僧、是れ敬田なり」の場合もあるようだ。しかし、面山禅師は上記の通り「福田」で提唱されているため、この記事ではその通り引用した。なお、曹洞宗では道元禅師の頃から既に、僧宝(或いは三宝として)が「福田」であることが強調(『永平寺知事清規』)されており、上記の教えは当然のように理解されているといえる。
そこで、面山禅師の御指摘は、法門の興廃が出家沙門(僧侶)に係っていることを示す。そして、「亀鏡文」本文を承けつつ、「僧が自らを重じて、三学厳密なれば、如来の大法も重くなり、僧が破戒無慚なれば、法も自然と軽くなる」と示されているのが重要である。いわば、三学厳密なる僧侶だからこそ、「内護」となり、そういった「内護」を外から護持する檀越もまた、「外護」になると述べているのである。
ところで、面山禅師は「内護外護」についての出典を指摘されるが、以下の通りである。
善男子、仏正法中、二種の護有り、
一つには内、二つには外なり。
内護とは、いわゆる戒禁なり、
外護とは、族親眷属なり。
若しくは仏如来、化身を受くるも、則ち外護無し、是の故に如来、化身を受けず。
『大般涅槃経』巻32「師子吼菩薩品第十一之六」
面山禅師は「第三」とされたが、おそらくは上記の一節が該当するはずで、しかも、だからこそ戒禁(三学厳密)や慎むべきとの見解が見られるはずである。上記引用文、最後の一節は良く分からず、一般的な同経の註釈書にも詳細は書かれていない。
簡単な記事で恐縮だが、以上の通りである。また、機会を得て、他の「亀鏡文」提唱も見ていきたいが、まずはここまで。
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