本国の伝大乗戒、蓋し鑑真和尚を以て始めと為す。釈書〈円澄伝〉に大同元年最澄法師、止観院に於いて衆の為に菩薩戒を授くるを以て其の始めと為すは非なり。
近藤瓶城編『史籍集覧〈巻三十)釈門事始考』近藤活版所・明治26年、25頁、見易く改める
まず、上記の内容について確認していきたい。要するに、本書では、日本で菩薩戒(大乗戒)を授けられたのは、鑑真和上であって、最澄法師ではないという話をしているのである。それで、この最澄法師の件については、『釈書〈円澄伝〉』に出ているという。
大同元年十一月二十三日、伝教、止観院薬師像前に於いて、数百人を率いて、円頓菩薩大戒を授く。澄も又、預かる。是れ伝大戒の始めなり。
『元亨釈書』巻2「釈円澄」項
これを見ると、確かに『史籍集覧』で書いている通りなのか?と思うのだが、意外とそうでもないかもしれない。虎関師錬禅師は「伝大戒」としているが、これは「円頓菩薩大戒」に掛かっている。つまり、大僧としての菩薩戒であろうから、そのことを「始め」としているのであって、鑑真和上の授菩薩戒とは意味が違うかもしれない。
参考までに、鑑真和上の授菩薩戒については、以下の記録となっている。
其の年四月初めて盧遮那殿の前に於いて戒壇を立て、天皇初め壇に登り菩薩戒を受け、次に皇后・皇太子も亦た壇に登り戒を受く。
『過海大師東征伝』
こちらが、鑑真和上の記録である。「其の年」とあるが、これは天平勝宝6年(754)を指し、東大寺の盧舎那仏殿の前に戒壇を築いて、授戒した様子が分かる。しかし、その初めは天皇(おそらくは聖武上皇を指す)、そして、光明皇后と皇太子(この時の孝謙天皇)に菩薩戒を授けているので、『史籍集覧』ではこちらが「伝大乗戒の最初」だと判断しているのである。
そして、これはこの通りだと思うのだが、一点疑問が残る。先ほども述べたが、最澄法師が弟子達に授けたのは、「大戒」なのである。「大戒」の解釈は様々で、「大乗戒」とする場合もあるが、この場合は、大僧菩薩戒の意味である。一方で、鑑真和上が聖武上皇などに授けたのは、在家戒である。
よって、菩薩戒という名称のみであれば、確かにその最初を鑑真和上にすることも出来ようが、一方で「大戒」の場合は、最澄法師を最初とするのである。この名称や位置付けの違いに対し、『史籍集覧』は把握されていなかった印象である。なお、この記事を書いていて、鑑真和上が来日されるまで、日本の僧侶は「自誓受戒」だったとはされているが、比丘10人がいなくても可能な「授菩薩戒」は全く無かったのだろうか?
これはこれで機会を見て調べてみたい。
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