法衣の功徳妙難思、三世の仏陀称して涯莫し、
偶たま如来に値うて此の服を披し、菩提の円満毫も疑わず。
面山瑞方禅師『釈氏法衣訓』「跋偈」
これは、江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師が著した『釈氏法衣訓』の巻末に掲載された「跋偈」を訓読したものである。なお、上記では断っていないが、当方の手元にある江戸時代末期の版本(律僧によって行われた再版本、嘉永元年[1848]版)を参照している。
そこで、この跋偈だが、当然ではあるが面山禅師が御自身で詠まれたものであり、意味は、本書の内容を要約したものといえる。
法衣(袈裟)の功徳の妙なる様子は思議することが難しい(くらいに広く、深い)、三世の仏陀も、その功徳を誉め称えるが、それは限りが無いほどである。たまたま、如来にお目に掛かってこの法衣を着れば、菩提が円満になる様子は、わずかであっても疑うことは無い、とでも訳せるだろうか。
本書は、同時代の僧侶たちの御袈裟の扱いについて、強く批判する様子が見られる。例えば、以下の一節などはどうか。
一 浴店にて五条衣と俗服と内裙(フンドシ)と、一度に脱で、打かさねて裸形にて、湯よりあがりて、その上に坐せし僧を見る言語道断なり。
『釈氏法衣訓』「凡例」
これなどは、その内の一つなのだが、面山禅師はこのような問題が起きる理由として、法衣(袈裟)を、ただ我々の色身(肉身)を飾る荘厳としてしか見ていないためだとしている。実際には、法衣とは仏身そのものであるから、それを正しく理解し、取り扱う必要があるという。そのため、必要な知識を著したのが本書である。
ところで、宗門では『正法眼蔵』に「袈裟功徳」巻があるため、その分野の研究が進んだが、全10章ある『釈氏法衣訓』の第10章は「袈裟功徳訓」となっている。まず『大智度論』から「蓮華色比丘尼」の一事を引用してから、末尾では「頂戴袈裟文(搭袈裟偈)」の意義を提唱しておられる。
「頂戴袈裟文」は、様々な文例があり、その都度意味を採らねばならないが、宗門で用いる同偈の解釈としては、『釈氏法衣訓』が一つ抽んでた内容であるため、当方もその都度参究をしているのだが、面山禅師は特に同偈を「三聚浄戒」を通して解釈され、いわゆる菩薩道を生きる菩薩が身に着けるべき法衣としての位置付けを導いておられる。
そういったことが学べ、また、『釈氏法衣訓』は決して難解な文体ではなく、晩年の面山縁而の教えがよく見られるものであるため、当方なども繰り返し参じているのである。