然るに、関連して調査したところ、ちょっと面白い文脈があることに気付いてしまった。今日はそれを紹介してみたい。
仏、阿難に告げたまわく、「未来世の、罽賓国の土に於いて、当に大法の会を作すべし。金毘羅等の五天子有りて、滅度の後、富蘭那外道弟子有って、蓮華面と名づく。聡明智慧あって、身は金色の如し。此の大痴人、已に曾て四阿羅漢を供養し、当に供養する時、是の如き誓願を作せり、『我れ未来の世に仏法を破壊す』と。其の阿羅漢の供養を以ての故に、世世に端正の身を受け、最後身に於いて国王の家に生まる。身、国王となって、寐吱曷羅倶邏と名づく。而も我法を滅す。此の大痴人、我が鉢を破砕す。既に破鉢し已りて、阿鼻大地獄の中に生ず〈以下略〉」。
『法苑珠林』巻98「仏鉢部第五」
これは、仏陀の法を破壊したいと願う愚か者がいて、その者は鉢盂を破ったところ、阿毘地獄に堕ちたというのである。よって、これは厳しい結果になるということになろう。だが、このような教えもある。
破鉢とは、鉢に三の上・中・下有り。若し、一々を瞋恚して破る者は、偸蘭罪を得る。若し鉢破りて綴らんと欲し、誤りて鑽破する者は、罪無し。
『摩訶僧祇律』巻27「明雑誦跋渠法之五」
これは、鉢盂(応量器)を壊すことによって、「罪」を得ることを意味するものである。怒りに任せて行う場合には、同じ僧侶相手に懺悔をすれば良いという位置付け(偸蘭罪とはそういう意味)である。また、意図的では無くて、誤って鉢盂を壊し、直そうとした場合には、無罪だとされている。
よって、頭鉢を破損したからといって、道場を追い出す罪を得ることは、律的には無いと思われる。
そこで、追放云々という話は転じて、それくらい大切に応量器を扱うことを教示するものであり、或る種の「戒め」なのだろう。無論、それで安心してはならない。やはり、頭鉢は大切なものだ。ところで、大切であるといっても、これを「仏陀の頭」のようにして考えるのは誤りだ。「頭鉢」の場合の「頭」は、「あたま」を意味しているわけでは無いと思われる。おそらくは「第一」という意味である。
頭鉢を「仏陀の頭」と見るのは、誤読によるこじつけである可能性が高い。ただし、どこかで頭鉢を頭と見る一文を見た気もするので、一概に嘘だともいえないところが難しい・・・
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