つらつら日暮らし

盤珪禅師の説く「迷い」とは何か?

江戸時代の禅僧・盤珪永琢禅師が、その簡単な言葉によって、「迷い」の本質についてズバリと説いて下さっているので、見ていきたい。

 迷うこととは、どのようなことであるかといえば、我が身にひいきがあるからこそ、迷うのである。
 我が身にひいきがあることとは、どのようなことかといえば、まず、誰であっても、隣の人が自分のことを謗ったと聞いては、それを怒り、その人を見ては憎み、(言葉は)聞こえぬと思い、その人の物言うことをも、悪し様に聞くなどということをするのは、我が身にひいきがあるからである。このように怒り、腹立たせれば、自分に具わった仏心を修羅道の罪に換えてしまうのだ。
 また、隣の人が自分を褒めたり、喜ばしいことを自分に申し聞かせる際には、未だ誉められる内容も見えず、喜ばしいことも降り来る前に、早くも喜んでしまうではないか。この喜びはどんなことかといえば、我が身にひいきがあるのである。
    岩波文庫『盤珪禅師語録』58頁、当方ヘタレ訳


これを読んでいくと、迷いは「身のひいき」が原点にあると指摘している。要するに、「我が身可愛さ」ということである。自分が可愛いので、自分に対して批判的・否定的な発言を聞くと、居ても立ってもいられず怒りを覚えてしまい、逆に、自分に対して讃嘆的・肯定的な発言を聞くと、歓喜してしまうということだ。

そして、ここから日常的な喜怒哀楽が生まれ、しかもそれが他者からの様々な働きかけを持って起こるところに、我々の「迷い」が増大していく。強いていえば、他者からの悪口などは逆境といえよう。転じて、誉め言葉などは順境といえよう。しかし、その順逆を決めているのは、所詮は我々の「身のひいき」である。本来、我々の五感の対象の、音の羅列に過ぎない言葉に善悪があるわけではない。

だからこそ、順境・逆境ともに夢幻泡影だといわれる。「夢幻泡影」とは『般若経』で説かれるように、「空」であることを示す言葉である。空とは実体が無く、ただ関係性によってのみ事象の一切が定まることを意味するが、関係性が変われば自ずとその事象の価値なども変わる。その転変の中にある無常なる事象を、「夢幻泡影」とはいう。

そうなると、「身のひいき」を収めて、ただ事象のあるがままにしておくと、我々は喜怒哀楽を、少なくとも他者からの働きかけでもって起こることを局限できる。そして、盤珪禅師もそれを求めている。なお、そうなると、具体的に盤珪禅師は、どのような方法でもって「身のひいき」からの脱却を考えていたのだろうか?

それが、「不生の仏心」という生き方である。盤珪禅師は、我々人間には、親より生み付けられた仏心が具わっているという。よって、余計なことをしなければ、それで一切が不生で調う。特別珍しい仏に成ろうというのでもなく、世間的な充足を得ようと思うのでもない、ただ親から生み付けられた仏心のママで居れば、一切が満たされる。一切が満たされれば、あくせくと評価を得ようとする必要もない、ただそれだけで良い、まさしくバカボンのパパよろしく「これでいいのだ」そのものである。

盤珪禅師の「不生の仏心」を突き詰めると、一切の事象を肯定していくことになる。それを転じて考えれば、一切の肯定を妨げているのは、我々自身の「身のひいき」になる。「身のひいき」こそが、「不生」の対義語としてあるわけだ。そして、そこから迷うのであれば、ウダウダいわずに不生でおれ、ただこれだけである・・・え?それが出来ない?一体、誰がそんなことを決めたのだろうか?少なくとも当方では無い。

出来る出来ぬと左之右之ばかりの身のひいき 天神九十五

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