菅神入宋授衣記
天満天神、径山伝授の僧伽黎を以て、西都霊岩神護山光明蔵神寺に安置するの流記。
慧日山東福寺第一世の聖一国師〈師の歳三十四〉、大宋国に入りて、径山仏鑑禅師に見えて、親しく巾瓶に侍す。是れ則ち日本四条院の嘉禎元年乙未四月、宋の理宗端平二年に当たれるなり。後七年、仁治二年辛丑四月廿日、仏鑑禅師を辞して帰朝す〈師の歳四十〉。是の年七月旦に博多に達し、同月横岳山湛惠禅師、往日の約に違わず、宰府に遷る。
横嶽、勅賜万年崇福禅寺の額〈額は即ち仏鑑禅師の自書、属を以て聖一国師に与う、と之れ真蹟なり〉を掲げ、開堂演法す。
同年臘月十八日、天満天神新たに崇福方丈に入り、因みに聖一国師に見えて禅を問う〈尊神昇天後、三百卅九年、即ち仁治二年なり〉。国師屡しば誨を示す。即ち其の夜を以て径山に現じ、仏鑑禅師に参得して親しく僧伽黎を伝与せらる、云々。
『群書類従』巻19・699頁、訓読は当方
まず、『授衣記』として理解されるのは、上記の内容で完結しているのだが、ここだけだと、「西都霊岩神護山光明蔵神寺に安置する」という部分が理解されないので、実際にはもう少し続くのだが、まずは上記一節までを読み解いておきたい。
さて、要するにこれは、菅原道真公である天満天神が、中国南宋五山の1つ径山万寿寺に行って、僧伽黎衣(九条袈裟)を貰ってきた、という話なのである。
関わるのは、京都の東福寺開山の円爾禅師(1202~1280)である。円爾禅師は、34歳で入宋され、径山の仏鑑禅師・無準師範禅師(1177~1249)に参じて侍し、その後7年を経て禅旨を悟り、日本に帰国された。そして、博多から太宰府に入られたのである。そして、太宰府横岳に湛恵禅師が立てていた寺に、仏鑑禅師からいただいた「崇福寺」の額を掲げて円爾禅師が開堂説法された。すると、同年の12月18日に、天満天神が崇福寺の方丈に入り、円爾禅師に禅を質問したという。この年は仁治2年(1241)であった。
ここまで論じて、そういえば、崇福寺って今は福岡市博多区内にあるはずだが、何故、太宰府?と思っていたところ、同寺は江戸時代の福岡藩・黒田候が入府されてから、現在地に移転されたらしい。要するに、円爾禅師の頃は、太宰府にあったということで間違いないとのこと。
何故、太宰府か?博多か?にこだわるかといえば、天満天神である以上、太宰府の話で無ければならないのである。ご承知の通り、道真公は太宰府に左遷されて薨去された。つまりは、その太宰府に、円爾禅師のような優れた禅僧が来ることで、初めて天神が仏道を会得するという流れになるのである。
そして上記一節は、円爾禅師に禅のことを質問した天神が、その回答を受けて直ちにその姿を中国径山に現し、仏鑑禅師に参じて僧伽黎衣を得たという話だったのである。もちろん、この話には続きがある。
密記に云く、杭州臨安府径山興聖万寿禅寺第卅四世特賜仏鑑円照禅師、諱は師範、字は無準、一朝天未だ明けず、丈室の庭上を見るに、一叢の茆草有り。禅師自ら謂わく、「昨の夕、此の草無し。今の旦、甚麼と為てか之れ生ずるや」。
時に神人有り、隻手に一枝の梅花を擎げ突然として出来す。
禅師問うて曰く、「汝、是れ何人ぞ」。
神人、語無し。唯、庭上の茆草を指す。
禅師、忽ちに謂いて曰く、「茆とは菅なり。即ち知る、扶桑の菅姓の神なり」。
神人、一枝の梅花を禅師の前に呈し、一首の和歌有りて曰く、「唐衣、不織而北野之、神也、袖爾為持、梅一枝」。忽ちに謂わく、「禅師の密旨を稟け、覿面に悟解す」。
禅師、即ち梅花紋の僧伽黎を付し、一偈を示す。偈に曰く、
天下梅花の主、扶桑の文字の祖、
這箇の正法眼、雲門答えて曰く「普」と。
神人、親しく僧伽黎并びに証偈を頂拝し了りて、又た一偈を献げて曰く、
手裡の梅花頂上の曩、安楽を離れず南方に現ず、
径山の衣法親しく伝授し、何ぞ時々に彼の蒼を仰ぐことを用いん。
是れ則ち宗の淳祐元年、日本の仁治二年辛丑十二月十八日なり。
伽黎伝授の後、亀山院の文永八年辛未十月望、尊神承天禅寺丈室裡に現じ、径山の伝衣を拈出し、以て鉄牛心和尚に告げて曰く、「和尚、願わくは此の伽黎を一所に安んずれば、豈に悦懌ならざらんや」。言い訖りて、伽黎を和尚に付し、飄々然として空に凌じて去る。
時に和尚、承天の主にして、親しく尊神の属悟を蒙り、同月廿五日を以て、宰府の霊岩の左辺に就いて、一僧宇を剏し、以て尊神付与の伽黎を安置し、衣塔と為す〈霊岩、俗に岩崎と云う。即ち尊神第一眷属御霊大明神の廟所なり。鉄牛心和尚誕生の霊地なり〉。
又た文永第十癸酉の年に至り、尊神又た夢裡に鉄牛和尚に告げて曰く、吾が伝授の伽黎、和尚の安置を得る。最も襟懐を愜するを以て、毎日此の地に入り、伽黎を拝護す〈云々〉。
爾来、山を名づけて霊岩神護と曰い、寺を名づけて光明蔵と曰う。諸人皆仰ぎ以て尊を称う。毎日影降の霊窟なり。誰か恭敬讃歎せざらんや。念々に疑いを生ずること勿れ。
同上・699~700頁
以上である。要するにこれは、天神が仏鑑禅師・無準師範禅師に参じたときの問答と、その後、頂戴した僧伽黎衣を鉄牛円心禅師〈1254~1326、聖一国師の資〉に授け、鉄牛禅師がいわゆる光明蔵寺を開いた故事を示しているのである。なお、鉄牛禅師は、生誕地については上記の通り、太宰府だと分かるが、この人は菅原氏の出身であり、天神の末裔という話もあるようだ。
つまり、以前から拙ブログで採り上げているが、日本の臨済宗を中心に、この「渡宋(或いは渡唐)天神」の図に対して賛を付す場合が少なからずあった。禅宗から見れば、神人化導の一例として見られてきたのである。当然、化導された神人は同時に、仏教や寺院の守護神となってくれるので、先に挙げた光明蔵寺(近年では、光明寺か光明禅寺と呼ばれるようだ)の守護神となったのである。しかも、『菅神入宋授衣記』自体は、光明蔵寺草創説話として構築されていることは明らかで、或いは、臨済宗聖一派が神人化導の霊力を自らに組み込んでいく過程の一話であったともいえよう。
今日は2月25日、拝請している天満宮の霊札に向かって拝礼するけれども、出来れば参詣にも行きたいものだ。南無天満大自在天神、合掌。
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