是の如く聞けり、
一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在り。仏、阿那邠邸長者の為に説けり、「過去久遠、梵志有り、毘羅摩と名づく。饒財多宝なり。
若しくは布施する時、八万四千の金鉢を用いて盛りて砕銀を満たし、八万四千の銀鉢もて盛りて砕金を満たし、復た八万四千の金銀を以て澡罐し、復た八万四千の牛を以て皆な金銀を以て角を覆い、復た八万四千の玉女を以て荘厳具足し、復た八万四千の臥具を以て衆綵自ら覆い、復た八万四千の衣裳を以てし、復た八万四千の象馬を以て皆な金銀を以て鞍勒とし、復た八万四千の房舍を以て布施し、復た四城門中に於いて布施す、其の欲する所に随って皆た悉く之を与う。
復た一房舎を以て招提僧に施す。上の如くの施福、三自帰を受けるに如かず。
所以に、然らば、三帰を受くるは、一切衆生の無畏を施す。是の故に、仏法僧に帰する、其の福、計量すべからざるなり」。
『三帰五戒慈心厭離功徳経』
まずは、この部分を見ておきたいと思う。これは、釈尊が或る長者に対して、過去の何れとも知れないくらい昔に、大変に多くの財産を持っていたバラモン(梵志)がいて、その財力に任せた布施を行っていた。しかし、釈尊はそれらに価値を認めず、更に、一棟の房舎を、招提僧(外国から来た僧侶の意味)に布施するというようなことよりも、三自帰(三帰依)を受けるには及ばないと断言したのである。
これは、外見的な財力よりも、その内面に於ける信念、或いは、自分自身を仏道に投げ入れることの大事さを説いた教えとして理解すべきなのだろう。個人的には、この辺で中国禅宗の達磨尊者と梁の武帝による「無功徳」の話を思い出してしまった。或いは、この辺などが参照されて作られた話なのだろうか。
そして、経典のタイトルからも分かるように、三自帰の話から五戒を受ける話に続く。
「上の如くの布施、及び三帰を受くるの福、復た五戒を受くる福に如かず。
五戒を受くるとは、功徳満具し、其の福勝れたり」。
以上である。ここで、五戒を受けることとは、あらゆる功徳が具わり、極めてその福が優れているという。つまりは仏道を志し、仏教の信者として、自らを律して生きようとする態度こそが肝心だということになる。しかし、経典のタイトルからも分かるように、「慈心」という話に展開していく。
「上の如くの布施、及び三帰・五戒を受くるの福、復た弾指の頃に衆生を慈念するの福に如かざるなり」。
以上である。つまり、布施や三帰・五戒よりも、指を弾いて音を立てる程度の短い時間に、衆生に慈悲心を起こして得られる福には及ばない、としているのである。しかし、経典のタイトルから分かるように、最後は「厭離」という話になる。
「如上の布施、及び三帰・五戒を受け、衆生を慈念するの福、復た一切の世間に楽想すべからざると起こす福に如かず。
所以は然らば、一切の世間に楽想すべからざると起こす福、能く行者をして生死の苦を滅し、終に仏道を成ず。故に其の福、最勝なり」。
爾の時、長者、仏の説く所を聞きて、歓喜奉行す。
これが結論であるが、このように、布施・三帰・五戒・慈悲心よりも、一切の世間に於いて、何かを願う気持ちを起こさないことこそが、大事だということになる。何故ならば、世間に於いて何かを願う気持ちが無ければ、その行者は世間のあらゆる功徳を離れ、いわゆる出世間としての仏道を目指すこととなり、結果として生死の苦を滅し、遂に仏道を成ずるからだとされている。よって、一切の世間に於いて、自らが何かを願う気持ちを捨てて、ただ、生死の苦を滅することが、仏道の最終目的であり、それを得られる福こそが最勝なのである。
当初、「阿含部」の経典で、三帰・五戒について手堅くまとめた経典なのかと思って読み始めたが、結果としては思っていたのとは違っていた。しかし、そうであるが故に、何やら禅僧が一切の文脈をひっくり返していくような、禅問答的爽快さも感じられた内容であった。
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