つらつら日暮らし

村山正栄『彼岸の信仰』に学ぶ6(令和4年春・彼岸会)

この春彼岸は、村山正栄『彼岸の信仰』(三密堂書店・大正14年)を学んでいきたいと思うのだが、今日は、「(四)両義語の渾融」の項目について、概観しておきたい。

なお、「両義語」とは、以下の通りに理解されている。

 既に述べたるが如く、彼岸の語は倭暦に於いては時節の義なりとし、仏説に於いては涅槃得脱の義なりとして二義相並び相譲らざりしも、今や観経日想観の有力なる他力仏説によりて両義は茲に渾せられ遂に彼岸の語は両義を兼ねてこれを云ふに至れるものである。
 即ち彼岸の真理はこれを時節の方面より解するも、亦仏説の方面より云ふも両義必らず一致するものにして、これ正しく直進して誤らざる地境に到達せんとするの義に外ならざるものである。
    『彼岸の信仰』23頁


結局のところ、暦説も仏説も、決して根拠にはならないものの、本書では「日想観」を媒介に、両者の説を繋いで、それを根拠にする立場を主張している。だが、これも問題なのは、極楽浄土を彼岸とする説は、決して容易に認められない。ただし、その説は、春分・秋分に於ける太陽の動きと、西方という明確な目標設定と、更にはその善行の根拠という3点が揃っており、本書でそれを推したのも理解は出来る。

だが、彼岸会の根拠か?というと、これが難しいわけである。何度も言うが、いわゆる「中陽院」信仰は、ここからは出てこない。そのためか、本書に於いても、以下のような結論を導いている。

凡そ物曲る時は其の影を生じ物直き時は邪影を生ぜざるが如く、邪心なき正直心にて年中正時の彼岸に仏道を修行し仏徳を讃美せんか、特に其功徳を蒙りて仏果を成弁し、又或は仏の御手に救済せらると云ふはそもそも彼岸会の根本的信仰でもあり、やがては彼岸会の起因ともなるのである。
    前掲同著・24頁


これも、彼岸会の修行を、自力的にも他力的にも捉えており、例えば「仏果の成弁」の部分は自力的で、「仏の御手に救済」の部分は他力的である。そして、その両方を「彼岸会の根本的信仰」「彼岸会の起因」としているので、信仰や実践という話から考えると、ややとっちらかった印象も得てしまう。

そのため、本書の立場は続く「(五)我が国彼岸会の起原・(六)彼岸信仰の今昔」を見ていかないと、何も結論付けられないけれども、この春彼岸も今日までとなっているので、続きは今年の秋彼岸にでも見ていきたいと思う。

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