第二釈題目とは、三種の覚を具えるを仏と名づく。岸に趣いて久しからずして、臨と為す。
或本に云く、垂とは、義、臨と同じきなり。栖心を滅するが故に般涅槃と名づく。
約を繁して略と云う。
金言を称説し、最後の約言を遺と名づく。
略して法要を訓じて教と云うなり。
経とは常の如し。
総じて云く、仏、般涅槃に臨んで略説するの遺教経なり。
恵光『唐招提寺戒壇別受戒式』「第五講遺教経」
こちらは、「題目を釈す」とある通りで、『仏垂般涅槃略説教誡経』という『遺教経』の詳細なる名前について解釈した一節である。意外と、「仏垂」の「垂」字などは、以前から何度か申し上げているように、「垂(なんな)んとして」と理解されるべきものであり、上記一節では「臨」字をもって理解している。
話は前後するが、解題は、一字毎に行われており、まず「仏」について、「三種の覚を具える」としているが、どうもこれは、「三種身」の概念が近いようで、「三種の身を具う、一には自性、二つには受用、三つには変化なり」などとする文献もある。また、岸というのは、彼岸のことで釈尊が涅槃に近付いたことを、「臨」としている。
或いは、それは「垂」のことだが、「臨」と同じだとし、その際に、心を留めない様子を、般涅槃としている。
また、「約」とは「つづめる」ことだが、これを「略」だとしている。
更には、釈尊の最期の金言を、「遺」だとしている。
また、略して法要を説いたことを「教」だとしている。
最後「経」とは、「常の如し」とあって、他の「経」と同じだとしているのである。
そして、総じて、「仏が般涅槃に臨んで、略説されたのが『遺教経』」だとされたのである。『遺教経』のタイトルについて、まずは正しい理解を促したことになる。
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