まず、そもそも「頭首」については、以下のような説明を参照しておきたい。
頭首とは謂わく、首座・書記・蔵主・知客・浴主なり。竝びに已前に同じく、知事の法に和会す。
『禅苑清規』巻3「請頭首」項
ここでは、五頭首が挙がっていることが分かる。ただし、実は「六頭首」であったはずなのである。同書には以下のような指摘もある。
六頭首、告退す。
「下頭首」項、『禅苑清規』巻5
それで、これに該当するのは何か?と思っていると、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師が以下のように指摘していた。
禅苑清規に首座・書状・蔵主・知客・庫頭・浴主を列し畢りて云く、已上、竝びに六箇頭首と為す。
『禅林象器箋』巻7「第七類 職位門」「六頭首」項
この意味が良く分からなかったので、改めて『禅苑清規』の本文を読み直してみたところ、結局同書の巻3~4にかけて、首座から浴主までを列挙して、「浴主」の題に続けて「已上、竝びに六箇頭首と為す」とあって、無著禅師はこれを約めて書かれていたことが分かるのである。
なお、『禅苑清規』の影響を受けているはずの道元禅師は、以下のようにも示しておられる。
《都寺監寺副寺》監院、維那、典座、直歳、侍者等、堂外の上間に在りて坐す。
知客、浴主、堂主、炭頭、街坊化主等、堂外の下間に在りて坐す。
『赴粥飯法』
ここからは、おそらく侍者以外の「監院」以下が「知事」に該当し、「知客」以下が「頭首」に該当すると思うのだが、この辺、例えば永平寺での説示を見ると、少し様相が変わっている。
院中の諸頭首、堂頭侍者・延寿堂主・炉頭・衆寮寮主首座・殿主の如し、並びに維那の請する所なり。
『永平寺知事清規』「維那」項
ここからは、知客や浴主などが省かれたわけでは無いのだが、「頭首」の括りについてかなりの多様性があると理解出来よう。それで、道元禅師の軌範を受け継ぐ状況であった瑩山紹瑾禅師の『瑩山清規』或いはそれを補完する『洞谷記』などを見てみても、頭首に関して随処にその名称は出てくるものの、いわゆる「六頭首」のような形での括り方をしていない。理由は分からないが、叢林の大きさ、僧衆の数などで「六頭首」が充員できたかどうかは分からないし、瑩山禅師の軌範を見ていると、知事と頭首で明確に分けているというよりは、お互いの役割を補完しながら、その都度で必要な公務を執行していたようである。
それで、「六頭首」を論じていくに当たって残る問題が2つあり、1つは結局曹洞宗ではこの後、「六頭首」がどう受け容れられたのか?ということと、先に挙げた『禅苑清規』の「六頭首」には「庫頭」が含まれるが、現在は「知殿」になっている。この変容についてどう理解するかである。
まずは「六頭首」の受け入れについてだが、江戸時代に入り編集された加賀大乗寺の『椙樹林清規』を見てみると、両班の記述の中で、いわゆる「西序」に位置する配役は3~6人と曖昧であり、ザッと見た感じでは上巻の「念誦巡堂点湯之式」に於ける禅堂外単の並びで、前門に近い位置から「首座・知蔵・浴主・書記・知客・知殿」(『曹洞宗全書』「清規」巻・452頁上段の図)になっており、ここに「六頭首」の並びが見られた。ただし、本書では「六頭首」という意識があったかどうか今一つ曖昧で、こういった記述もある。
次に知事頭首の礼あり、謂る副寺、監寺、都寺、維那、堂司、典座、直歳、首座、書記、蔵司、知客、浴主、侍真、知殿、化主、上頭、寮主等なり。
『椙樹林清規』下巻「年中行事・正月元旦」項、『曹全』「清規」巻・497頁上段
以上のようにあって、もちろん、どの配役が知事で頭首かを分かっているから区分けするけれども、上記のような記述の仕方だと、ただ列挙しているだけで、しかも、「六頭首」という感じがしない。やはり、「六頭首」の受容はもう少し後の時代を待つべきか。
西序六頭首(首座・書記・知蔵・知客・知浴・知殿)
面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「職務略訓」、『曹全』「清規」巻・175頁上段
名称も含めて、完全に現代と同じ記述法であり、並び順もここで決まった印象がある(要するに、現行『行持軌範』「朝課諷経」の「課誦位図」の順番と同じである。なお、面山禅師が典拠にした文献は後述する)。そして、『禅苑清規』に見える「庫司」が無く、「知殿」になっていることも理解出来たと思うのだが、先ほど挙げた「2」の問題ということだが、面山禅師はその経緯も含めて以下のように示されている。
しかるに禅規の請知事には、監寺、維那、典座、直歳の四名見へて、六頭首の中に、別に庫頭を出せるは、別名の相違か、庫頭は副寺のことなれば、知事の中にこそ入べけれ、頭首の中にいるべき訣なし、ゆへに禅規の、請頭首の下には、首座、書記、蔵主、知客、浴主とつらねて、庫頭は見へず、四知事の中に、有処立副院と云が、この庫頭にて、副寺なり、ゆへに勅規の副寺の下に、古規云庫頭あり、これ証なり、
面山禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻6「諸職法考訂」、『曹全』「清規」巻・288頁下段
さて、この辺を引用しつつこの記事をまとめておきたい。『禅苑清規』には頭首の中に「庫頭」が入っているのだが、役職について「庫頭の職、常住銭穀の出入算計の事を主執す」(『禅苑清規』巻4「庫頭」項)とある。それで、面山禅師はこれを「副寺」と同じ仕事とし、『勅修百丈清規』巻4「両序章第六」の「副寺」項を引いて、「古規に曰く庫頭、今の諸寺、櫃頭と称す」という一節を典拠にした。そして、結果として「知事」に入ったとした。一方で、空いた席に「知殿」が入り、現状の「六知事」が成立したことが分かる。
それで、現状と同じ数え方をしているのは、『勅修百丈清規』であり、巻4「両序章第六」では、「前堂首座・後堂首座・書記・知蔵・知客・知浴・知殿」と続いているわけである。僧堂の大きさに依拠して、首座が前堂と後堂(今の後堂職の起源)となっているので、これを1つの「首座」と見なし、以下五役を併せて「六頭首」になるわけである(ただし、同書には「六頭首」表記は無い)。
面山禅師は、『勅修百丈清規』の数え方を導入しつつ、名称は『禅苑清規』に由来して「六頭首」を定めたのではないか?という結論なのである。
ここまで書いてふと思った。そういえば、複数の僧侶が集まって行われる大法要では「知庫」という配役が置かれるが、それはどこに行ったのかな?と思った。それはそれで、何かの時に書きたい。
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