つらつら日暮らし

「鈍置殺人」事件発生

いや、余り面白くない記事で本当に申し訳ないm(_ _)m

 香厳襲燈大師、因みに僧問う、如何なるか是れ、王索仙陀婆。
 厳云く、遮辺を過ぎ来たれ。
 僧、過ぎ去く。
 厳云く、鈍置殺人。
 しばらくとふ、香厳道底の、過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや、試請道看。ちなみに、僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずば、鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば、鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。
    『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻


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とりあえず、香厳襲燈大師とは、香厳撃竹の話で有名な香厳智閑(?~898)のことである。その人に或る僧侶が、「王索仙陀婆って何ですか?」と聞いた。すると、香厳は「こっちにおいで」と促した。僧がその言葉に従うと、香厳は「鈍置殺人」と発したのであった。

これは、或る意味「事件」である。「鈍置殺人事件」である。

というので、『正法眼蔵』を学ぶ際には、直ちに特捜本部を打ち立て、この一件に対する参究を行ったという話になる、えぇ。「しばらくとふ」以下は、その特別捜査によって明らかになったこの一件の実態である。ここで、道元禅師が問題にされたのは、香厳の発言に於ける「過遮辺来」が、「索仙陀婆」だろうか?「奉仙陀婆」だろうか?についてである。

これはつまり、「仙陀婆」を求めているのか?奉っているのか?という話である。「仙陀婆」とは、インドの或る地方で採れる名産品とされ、塩・器・水・馬が該当する。そして、王が「仙陀婆を持って来い」というと、臣下の者達は、その時の状況に応じて、これらの中から何かを正しく奉ったという。

王が求めれば、それに正しく臣下が奉る、これを世尊が『大般涅槃経』(大乗の、だけど)で用いたので、道元禅師は、この一件は「世尊すでにまぬかれず挙拈したまふ」とされた、つまりは仏語である。ところで、仏語であるため、この一件というか、一則の理解はもちろん、仏道を参究するという状況に於いて行われなくてはならない。そうすると問題になるのが、「王様が求めていることを、臣下としてただ奉ることは、本当に仏道に契うの?」ということであろう。

よって、道元禅師は、南泉普願と鄧隠峰との問答によって、「水」の一語をもって、ここに融通無碍なはたらきを持たせることに成功している。その上で、この香厳の一則なのである。

さて、話を戻しますが、僧が「過遮辺去」したというのは、香厳が索めたことなのか?奉ったことなのか?それとも、香厳が本から期待していたことなのか?そして、もし本から期待していたことで無ければ、「鈍置殺人」と言ってはならないとしている。また、本から期待していたことであれば、「鈍置殺人」ではないとされた。

ではこの「鈍置殺人」とはそもそもどのような意味なのか?別に、殺人事件というわけではない。『禅語辞典』(思文閣出版)を見ると、「人をとことんコケにしてくれた」という意味で、春秋社『道元禅師全集』の註記だと、「バカにしおって」等の意味だとしている。要するに香厳は、自分が「こっちにおいで」といったのに、それに僧が従ったところ、「バカにしおって」と述べたということである。

こういう遣り取り、道元禅師は看過出来なかったのである。だからこそ、「香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず」といい、「たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる」とまで述べられた。明らかなダメ出しである。よって、そもそも、香厳が期待していたことでなかったならば、僧の進退は融通無碍なる仏法に契うので、鈍置殺人とはいえないこととなる。逆に、香厳が期待していたことであれば、まさに通常の「王索仙陀婆=臣奉仙陀婆」となるので、やはり、鈍置殺人にはならない。

ここには、「仙陀婆」をめぐる2つの価値観が織り交ぜられており、その中で香厳の発言を解体してしまったといえる。鈍置殺人事件、一件落着である。また、『正法眼蔵』勉強会で、「王索仙陀婆」巻読みたいな。

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