禅宗とは、世俗的な言葉を使って教えを説くというのが得意である。よく「禅語」などともいわれるが、この「禅語」も、何か特殊な言葉というのではなく、仏教の世界から見ると、世俗の言葉を使うから特殊に聞こえるが、世俗の方から見れば、余り珍しい表現ではない、という話になる。
であれば、今日のそろばんの日に因んで、算盤ネタは何かないのか?と思っていたら、いくつか出て来たので、それを見ていきたいと思う。この文脈から、禅の側で、算盤の本質を、どう捉えていたかが分かる。
問う、如何なるか是れ祖師西来意。云く、庭前の柏樹子と神前の酒台盤。是れ同なるや、是れ別なるや。
答う、指数の労も解けず、算盤を動かせ。
『霊機観禅師語録』
この語録は、中国清代の僧のものである。この人を拙僧は良く知らない。でも、ここでいわれている内容は面白い。或る者が、「祖師西来意(達磨が西から来た意義は何か?)」という事が、多くの場合の問答の主題に採り上げられた。
その答えとして、前者の「庭前の栢樹子」は有名である。唐代を代表する禅僧の一人である趙州従諗禅師(778~897)の言葉であり、達磨がインドから来た理由は、「庭にある柏の木」だというわけである。内容の理解は、色々とあるが差し控えておこう。
それで、答えとしては「神前酒台盤」もあるが、両者が意味するところは、同じなのか?違うのか?と聞いている。この問いへの答えが、「指で数えても分からないから、算盤を使え」といっている。つまり、私見を働かせずに、法の道理にしたがえ、ということになる。算盤は、ただの道具というだけではなく、或る種の「公準」的機能も持っていたから、それを問答に使ったのであろう。
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