卅九妻帯の事
〇問ふ、当流の僧侶は仏制戒に背き、何ぞ妻子を帯するや。
答ふ、仏も時に随ひ機に随ひて制許あり、
問ふ、機に随ふ許説如何、
答ふ、天台云く、和須密に多は婬事梵行矣、諸法無行経に云く、婬欲即ち是れ道、恚痴亦復然り、此の如く三事中無量諸仏道と矣、智論三十五巻に妙光菩薩に妻子あることを判ず、同四十六巻に云く、婬欲の心、衆生を悩すと雖も、心繋縛する故に、大罪と為る矣、和須密多は心繋縛せざる人と見へたりしかれば人に随て妻子を許あり、
問ふ、時に随ひ妻子を許す、其の説如何、
答ふ、末法無戒の世なり、戒定慧無き時代なり、賢愚経に云く、若し檀越将来末世に法乗尽くさんと欲す、正に妻を蓋へ、子を挟ましめんと欲す、四人以上の名字僧衆、応当に礼敬、舎利弗・目連等の如くにすべしとのたまへり、
問ふ、明眼論に云く、末代無戒の時に及び称す、持戒の比丘・比丘尼を謗れり、或は当世の作法と号して先徳の法則を猥りにす等と云ふ、若し、無戒の世なりとて我儘に妻子を帯せば、明眼論の説にあたれり、如何、
答ふ、持戒無く、何をか謗らん、たとひ有とも謗れば明眼論の論にあたれり、当流のこころ我身無戒の時に生を受く下根下智にして戒行持ち難し、仏願不思議にて往生を遂げ、信じて他を謗るこころなし、
『真宗百通切紙』巻2、カナをかなにし段落を付すなど見易く改める
まず、前半の一部を採り上げてみるが、上記で「機」について挙げる中で、「和須密」のことは、荊溪湛然『止観輔行伝弘決』第二之四に見える。また、『諸法無行経』は『大正蔵』巻15に入っているが、上記の一節はおそらく『華厳経探玄記』巻18からの引用(孫引き)であろう。それで、ここの一節については、「心が煩悩にとらわれない人であれば、妻子を許すこともある」という意義を引きたいのだと思われる。
また、「時」について、既に前の記事で『賢愚経』は見たので、ここでは『明眼論』について確認しておきたい。これは、『説法明眼論』という文献で、「釈法身品第十三」に上記一節が見られる。ただし、引用についてはここで終わると、少し分かりにくい。上記の引用文に続いて、「或いは私の新宗を立てて、古賢の宗義を壊す」とあることも見ておきたいところである。つまりは、『明眼論』では、説法する者の資格について論じたものだが、破戒・無戒の者を認めているわけでは無いのである。
そうなると、上記引用文の最後の一節は、『明眼論』では、持戒していない時代だと称して、持戒する比丘や比丘尼を謗ると罪になるとしているが、持戒する者がいない時代なのだから、一体何を謗ることがあろうか。もし、持戒しているものがいれば、謗ると罪になるのは『明眼論』の通りである。浄土真宗では、我が身は無戒の時代に生を受けてしまったし、下根下智であるから、戒行を保つことは難しい。よって、阿弥陀仏の本願の不思議な力に依って往生を遂げると信じて、他を謗るべきではない、としたのである。
ここまででは、まだ何故結婚して良いとするのか、宗義的なことはほとんど出て来ておらず、経論などからの引用のみである。そもそも、『真宗百通切紙』は元々浄土宗の僧侶が、真宗に転宗することで成立した文献である。よって、自己自身の立場を確認する作業も同時に行われているはずで、その点を見ておきたいが、それは次回以降の記事としたい。
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