知るべし、諸法はわが諸法なり。われはすなはち諸法のわれなり、われと諸法と唯是れ水波のわかるなり。水波のわれは即ち三宝の正体なり。三宝はすなはち我らが全体なるを知らば、応ぜざる三宝あらず。そのよく三宝の正体をしるを帰依の道理とす。帰依に別路あらず、たゞわが正体にかへるときを正帰依とす。我を知らず只だ帰依の名のみ思ふは、正帰依にあらず。正帰依なるとき、われこれわれにあらず。我にあらざれば彼れにあらず。かれとわれと二もまたなし。このなしといふを、われとしかりとして三宝たつ帰依たつ。たてばいまの三宝あり。
帰依ありてひとしく無上甚深微妙法なり。帰依の第一義は、別の容儀にあらず、五体投地して一心頂礼するなり。一心礼恭は、能礼所礼性空寂なり。性の空寂なる、必ず自心他心体無二なり。無二とは合体の儀にあらず、自他の自他といふを無二とせり。これ分別思念のなすにあらず、自の全生全活、これ他の全体なり。全体とは、観世音菩薩の銭をもちきたりて買ふところの胡餅饅頭なり。饅頭の点出点入、これ能礼所礼の礼儀なり。
指月慧印禅師『三帰依増語』、永久岳水先生編『禅門曹洞法語全集(坤)』中央仏教社・昭和10年、14~15頁
以上の一節は、帰依を礼拝に見たことから論じられている。そして、礼拝については、天童如浄禅師が道元禅師に示された「礼拝偈」が根拠となっている。
拝問す。昨夜の三更、和尚普説して云く、「能礼所礼性空寂、感応道交難思議」と。深意有りと雖も、解了すべきこと難し。浅識の及ぶ所、疑うところなきにしもあらず。いわく、感応道交の道理、教家も亦た談ず、祖道に同ずべきの理ありや。
堂上和尚大禅師、慈誨に云わく、你、須らく感応道交の致す所を知るべし。若し感応道交に非ざれば、諸仏出世せず、祖師西来せず。又た経教を以て怨家と為すべからず。若し従来の仏法を以て非と為す者は、円衣・方器を用いるべきなり。未だ円衣・方器を用いざれば、須らく、必ず感応道交と定めることを知るべきなり。
『宝慶記』第18問答
つまりは、「能礼所礼性空寂、感応道交難思儀」という偈があるのだが、如浄禅師はその本質を「感応道交」であるとしている。つまり、指月禅師は、この感応道交をもって、自己と三宝との関係性を論じているのだが、「感応道交」については、自己と三宝との対立が尽きたところを論じている。
その前提として、指月禅師は「諸法はわが諸法なり。われはすなはち諸法のわれなり」としており、そこから「三帰依の真実義」を導いているが、「三宝はすなはち我らが全体なるを知らば、応ぜざる三宝あらず。そのよく三宝の正体をしるを帰依の道理とす」としつつ、その帰依には「別路」が無いとしている。確かに、自己自身として何かを構築するのでは無く、自己の全体が三宝であるから、「別路」は起きようが無い。
よって、我と彼とを立てないが、一方で「このなしといふを、われとしかりとして三宝たつ帰依たつ。たてばいまの三宝あり」としているため、自己(我)を立てないことが、そのまま三宝なのである。そして、三宝たる自己が、「帰依の第一義は、別の容儀にあらず、五体投地して一心頂礼するなり」とあるから、ただ一心に礼拝するのだが、礼拝する自己が三宝となる道理について、「一心礼恭は、能礼所礼性空寂なり。性の空寂なる、必ず自心他心体無二なり」としているのである。
ところで、自己が三宝となる道理について、自己と他己との「合体」が起きるのか?と思いきや、「無二とは合体の儀にあらず、自他の自他といふを無二とせり」としており、更に「自の全生全活、これ他の全体なり」としているため、自己を無にして礼拝する様子が、「全生全活」となり、それを他の全体だとしているのである。
さて、上記一節で理解が出来なかったのが、「全体とは、観世音菩薩の銭をもちきたりて買ふところの胡餅饅頭なり」なのだが、調べたところ、元々は雲門文偃禅師の言葉であった。
古を挙して云わく、聞声悟道し、見色明心す。
師云わく、作麼生か是れ聞声悟道、見色明心なるや。
乃ち云わく、観世音菩薩、将に銭をもち来たって餬餅を買う。手を放下して云わく、元来、祗だ是れ饅頭なり。
『雲門広録』巻中「室中語要」
つまりは、悟道・明心という働きを、観世音菩薩や銭を持って来て餅を買うと表現している。だが、問題はただこれが饅頭が手に入っただけであったということになる。つまりは、仏法そのものの饅頭こそが、「能礼所礼の礼儀」なのである。いわば、自己を否定し仏法のわれとなっている時の礼拝が、三宝なのである。三宝は、礼拝の中にこそある。
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