ところで、この俳句は江戸時代の段階で、既に芭蕉作だとされていたが、明治時代以降、その傾向が強まったことが分かったので、その辺を記事にしたい。
まずは、明治時代に刊行された芭蕉の全句集的文献で、先の句は掲載され続けた。だが、その方法には、幾つかの違いがあった。
・大塚甲山編『芭蕉俳句全集』内外出版協会・明治36年
以上の文献では、とにかく「彼岸」という項目で出ている。なお、本書は、更なる典拠を挙げないので、問題は無かったのだろう。だが、少し後の時代になると、典拠を挙げるようになるが、そうなると微妙な表記が増えてくる。
・沼波瓊音編『芭蕉全集』岩波書店・大正10年
こちらにも、先ほどの句が出て来るのだが、典拠を『芭蕉翁句鑑』としている。さて、怪しくなってきたぞ。この文献、明治・大正期にはかなり参照されるのだが、一方で、同時代の芭蕉研究者の間では、この句集にのみ出ている俳句があるようで、掲載された俳句の真偽を問う声とともに、『芭蕉翁句鑑』自体の怪しさを問い始めていた。この辺は、同じ芭蕉全集的位置付けとなる『俳諧一葉集』と同じような評価だったといえる。
・半田良平『芭蕉俳句新釈』紅玉堂書店・大正14年
こちらの書籍では、もう先の彼岸会の俳句については、(?)としている。つまり、典拠不明ということだ。同じ時代に、この辺はかなり書誌学的研究が進んだそうである。
・勝峰晋風編『日本俳書大系 第1巻 (芭蕉一代集)』日本俳書大系刊行会・大正15年
こちらの勝峰氏は、芭蕉の俳句について、可能な限りの全句にわたり考証した人らしいのだが、その中で、先の俳句が『俳諧一葉集』に入っていることを指摘しつつ、「芭蕉俳句不審抄」という項目に入れた。つまり、典拠がかなり怪しいものだと指摘しているのである。
その後も、この彼岸の俳句は芭蕉のものだとして引用されたりはしているが、大正期の学問の水準で、既に否定されつつあったことは知られておいて良い。
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