ところで、日本曹洞宗では高祖と仰ぐ永平道元禅師(1200~1253)の在世時から、降誕会を行っていたことが知られている。しかも、現代にまで繋がる法要が行われていたのである。
四月八日は仏生会なり。
〈中略〉
四月十四日の斎後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂、おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事、あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。
念誦の法は、大衆集定ののち、住持人、まづ焼香す、つぎに、知事・頭首、焼香す。浴仏のときの、焼香の法のごとし。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、夏安居を結制する際の作法で、安居の無事円成を願う土地堂念誦についての指示である。そして、「四月八日」については「仏生会」であると指摘し、更に、土地堂念誦の際に出班焼香を行うと指示されているのである。その焼香法を示すために、「浴仏のときの、焼香の法のごとし」とされたのであった。
さて、この「浴仏」についてだが、更に以下のような教えも知られている。
浴仏の上堂。
我仏如来、今日生ず、十方の七歩、一時に行ず。誰か知る、歩歩に生諸仏なることを。
諸仏今日の声を単伝す、過去・未来并びに現在、同生同処し亦た同名なり。
南無釈迦牟尼仏、香水洗頭、老兄を浴す。
這箇は是、浴底降生の道理。
作麼生か是、浴儀。
長時に我仏、衆僧を浴す。今日、衆僧、我仏を澆ぐ。
良久して云く、大衆、同到仏殿、我仏を潅浴せん。下座。
『永平広録』巻1-98上堂
道元禅師がまだ、京都深草の興聖寺におられた頃の降誕会の上堂である。こちらで、道元禅師は「浴仏」についての問いを、学人に向かって発せられ、浴仏の道理を端的に示された。しかも、ただ道理を示されたのみでは無い、道元禅師自ら大衆とともに仏殿に向かわれて、浴仏されたのであった。なお、「浴仏」とは、仏像に対して香湯を注ぐことをいう。
四月八日、浴仏の上堂。
云く、我が本師釈迦牟尼仏大和尚、三千年前の今朝、浄飯王宮・毘藍園裏に現生降誕し、十方を周行すること七歩し、一手は天を指し一手は地を指し、四方を目顧して云く、「天上天下唯我独尊」と。
師云く、大家要すらくは世尊降生を見るや。払子を拈じて一円相を作して云く、世尊降生し了れり。尽十方界山河国土、其の中の諸人有情無情、三世十方一切諸仏、瞿曇世尊と与に同時に降生し了れり。都て一物も先と為り後と為る無し。因みに甚と如てか斯くなるや。所以に世尊、大仏の降生を受けて降生し、大仏の脚跟を受けて周行七歩し、大仏の開口を受けて便ち天上天下唯我独尊と道う。畢竟、更に道え。諸受を受けざれば、是れを正受と名づく。若し也た恁麼ならば、涓滴、別処に落ちず。
作麼生か是れ不落別処底の道理。
良久して云く、若し伝法し衆生を度さざれば、終に仏恩に報ずると為すと名づけず。
作麼生か是れ伝法報恩底の道理。
下座し、大衆と与に同じく仏殿を詣でて、如来清浄法身を拝浴す。
『永平広録』巻2-155上堂
こちらは、まだ永平寺が大仏寺と呼ばれていた頃の上堂説法であるが、こちらでもやはり浴仏の教えを示されているが、先ほどは「浴仏」そのものを中心に論じておられたが、こちらは、「伝法報恩底の道理」を論じられる中で、大衆と一緒に仏殿に詣でられて、浴仏されたのであった。
どうしても、道元禅師が伝えられた只管打坐の教えを、演繹的に適用させることで、道元禅師在世時の永平寺については坐禅以外の法要の所在について、積極的に語られることは無い印象だが、実際には上記の通り、三仏忌の一である釈尊降誕会を行われ、また浴仏の儀式も行われていたのである。それは正しく知られるべきなのだろう。
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