むしろ、現代でこそ、立春は2月4日及びその前後くらいに固定されていて、季節が伴うのだが、旧暦には旧暦なりの考えがあったはずである、そう思っていた。よって、今日は、この「節分」および「立春」を、どのように考えるかについて、少し前の文献などから探ってみたい。
ところで、江戸時代の江戸の行事について研究した三田村鳶魚編『江戸年中行事』(中公文庫)を見ていると、「節分」と「晦日」を別の行事として扱っている。具体的な日付は書かれていないが、「節分」は「厄はらい」が家々を回るとし、「晦日」はやはり年越しである。この辺を問題意識として持ちながら、調べてみた結果を挙げておく。
○節分
節分は立春に入前の日をいふ、冬の陰気終り春の陽気来る竟りなり、故に除夜ともいふ、此夜菽を打、悪鬼をはらふ、是を追儺といふ、昔禁中にては節分の季節に拘はらず十二月三十日の夜、此事行はるゝなり、世諺問答に、今夜は悪鬼の夜行する夜なれば、禁中にも昔は陰陽寮祭文を読上、公卿卿以下是を追、其形四目ありておそろしげなる鬼の面を被り、手に楯矛を持て内裏の四門を守り、殿上人は御殿の方に立て、桃の弓、蓬の箭にて射はらふ、是等を象どり節分の夜、菽を打ちて鬼を払ふことはじまれるやとあり、
開運館編『独占易学全書』又間精華堂・明治34年、第6冊37頁
まず、これを見て「なるほど」と合点した。つまり、本来の節分については、立春という「春節」の前日を指しており、それを、冬から春に転じる日として、「除夜」ともいうとしている(なお、除夜の語源には様々な説がある。上記はその一説に過ぎない)。ところが、この「節分=除夜」に対して習合してきたのが、追儺という魔除けの儀式(要するに「鬼は外」と掛け声する豆まき相当の儀式)である。
それで、この「追儺」こそは、「節分の季節」に関わること無く、とにかく「十二月三十日(旧暦上の大晦日)」に行われていた。つまり、追儺は年越しの行事として行われており、一方で節分は立春前の儀式であった。そして、この2つが習合することによって、日付の顛倒もまた発生したものかと思われる。そのため、大晦日が節分となり、同時に、立春も本来の日付ではなくて、お正月を指すようになったと考えられよう(これは、お正月のことを「新春」とも表現することを思うべき)。
それで、この辺は正しいのかどうか、検証が出来ているわけではないが、以下の説も紹介しておきたい。
節分
節分は、大寒に入る前の日なれば、今は一月に亘ることなれど、此事もと陰暦にては、大抵、十二月にて、且事追儺と関係あるによりて、因に此に記す、昔はこの日、土の牛と童子の像とをつくりて、禁裏の諸門に立て、寒気を送り出し、立春の前日の夜半に撤去するなり、此事弘仁延喜の頃より行はれたり、其始は豆を撒く事はなかりしに、後には、追儺と混して、節分に豆まく事となりぬ、
萩野由之『朝野年中行事』博文館・明治25年、76頁
こちらも、「節分」とは、いわゆる大晦日とは関係がなく、立春の前日の行事だったことを示している。だが、上記の通り、後には「追儺」と混淆されてしまい、いわゆる「豆まき」の儀式に変わっていったことを示す。繰り返しになるが、この「追儺」は「十二月三十日」で良く、立春はそうではなかったわけである(なお、元旦が立春だったこともある)。
追儺
追儺はツイナとも、ナヤラヒとも、鬼ヤラヒともいふ、文武天皇の慶雲三年に、諸国流行病にて、百姓多く死亡したるによりて、始めて大儺す、是其始なりといへり、其原は支那より起りて、陰陽家などいふものヽ方術と見えたり、これ十二月晦日の夜に行はる、
前掲同著・76頁
このように、やはり「追儺」は大晦日に実施されるのである。しかも、それは立春に因む儀式とは本来関係がない。よって、今回考察した内容を少しまとめてみよう。
①節分は立春の前の儀式
②追儺は大晦日(年越し)の儀式
③節分と追儺が習合
④節分は新暦の上で2月初旬にほぼ固定
⑤追儺が何故か節分に付いて来て2月上旬に実施される
⑥でも本当は年越しの儀式が妥当なので大晦日に戻したら?
ということである。もちろん、現代でも一部地域などでは、立春の頃を旧正月などと称して祝う場合もあるようだし、それなら、上記の⑤・⑥などは杞憂に過ぎないが、地域や家庭の行事などで、年越し行事風なのに、節分として行っている場合があったとすれば、上記のことを疑ったほうが良いといえる。
そんな、身も蓋もないような話になってしまった・・・
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