以前、とある方のご葬儀に列席したときのこと、ウチの宗派のご葬儀だったのだが、とても良い戒名が付いていた。明らかにその人のお仕事やお人柄が偲ばれるものであった。
それで、拙僧つらつら鑑みるに、なるほど確かに「戒名」は「仏弟子の名前」であるとはいうが、もう一つ死後永年経っても、家族に人柄や生前の生業を伝えられるという意味合いがあるなぁ、と思ったのであった。
これがもし、生前の俗名そのままだと、結局その人本人を知っている人が生きている間は良いけれども、そういう繋がりが絶えてしまうと、生業などは全く分からなくなってしまう。無論、記録を残しておけば別だけれども、そういう記録だって、永年の間には参照されなくなるものだ。
その点、戒名の場合は、(付け方にも依るけれども)だいたいは俗名の一部を入れ、生業やその人となりを示す語句を表現する場合が多いと思う。本来は、仏道修行に相応しい名前を付けるべきであり、昔の戒名を見ると、悟りを示すような語句がそのまま付いている場合も多かったけれども、最近のトレンドは、先に述べた通りである。
そうなると、俗名から採られた字句から生前の名前を辿ることが出来(まぁ、だいたい位牌の裏面に俗名が書いているけれど)、生業や人となりと合わせてその亡くなられた方を想いに留めることが出来るのである。
そういう機能を持っていると思うと、やはり戒名をいただくというのは、何ともありがたいものだと思うのである。無論、昨今では、一人世帯が増え、誰も供養をしてくれる人がいないままに亡くなってしまうというようなこともあるかもしれない。やや酷な表現ではあるが、無縁仏になることなのだが、昨今では寺院などに永代供養を願う場合もある。
そういう時にも、やはり適切な戒名が付いていれば、寺院で戒名を読み込むときに、その読み込む僧侶の記憶に、その人となりが浮かぶことだろう。いや、明確ではなくて、引っかかる程度かもしれない。とはいえ、遠い記憶を思い出す場合には、この引っかかるというのがとても大切で、それを促すという機能も、戒名にはあるということである。
よって、最近では様々な価値観も出て来て、戒名に価値を示さず、頂く理由を理解しない場合もあるようだが、そういう状況であっても、やっぱり大切だと拙僧自身は強く思った。以前参列したご葬儀は、それを強く思わせるものであったため、記事にしてみた。
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