その日に因んで、記事を書いておきたい。
若し復た人有りて、是の如き花を散じ、福の無量を獲ん。
若しくは如来の言わく、衆生をして繒綵を剪截して、草木を傷損して、以て散花と為さしむ。是の処、有ること無し。所以は何となれば、浄戒を持するとは、諸もろの天地森羅万像に於いて、触犯せしめず。若しくは誤犯する者は猶お大罪を獲る。況んや復た今は浄戒を毀すが故に、万物を傷損して福報を求むれども、益ます反りて損さんと欲す。豈に是、有らんや。
『少室六門』「第二門破相論」
達磨尊者に仮託された教えであるが、よくよく見てみると、自然破壊に対して、かなり厳しいことを言っているような文章だったので、参照してみた。
何を言っているかというと、三宝への供養として、いわゆる散華があるのだが、その是非について論じている。実際、『大般涅槃経』に於ける、仏塔への供養の指示を見ても、散華(切り花)の供養は、肯定されていると思うのだが、上記内容を見てみると、如来の教えには、衆生が草木を破壊してまで、散華を作るという指示をしていない、というのである。
何故ならば、仏陀の浄戒を持つということは、一切の天地・森羅万象に対して、壊すことを認めていないからだとしている。しかも、壊せば大罪を獲るとしつつ、散華を作ることは、浄戒を壊し、万物を壊すので、それで福報を求めても、意味が無いとしているのである。
それにしても、自然物に対しても浄戒の適用がされるというのは、根拠があることだろうか。実際の仏教には、そういう教えはない。ただし、禅宗の場合には、一切の事象を仏心上の事実として把握するため、森羅万象であっても、破壊すれば、仏心(身も?)を傷つけることとなり、結果として破戒になるという論理自体は導ける気がする。
そうなると、この辺から、改めて禅宗的文脈の中で、自然破壊への批判という教えも導き出せるのかもしれない、などと思うようにはなった。とはいえ、本当に仏教的か、というと、むしろ道教的な観念のような印象もしていて、その辺の区別が、当方にも難しいなどと思ってしまった。
今日は「森林の日」らしく、当然に、自然環境を守ろうという話になるので、関係ありそうな記事をアップしてみた。
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