・お箸(はし)の記念日ってあるの?(ごはん彩々)
要するに、「1111」が、箸2膳の並ぶ様子に見えることから、「箸の日」に充てられたらしい。語呂合わせは?とか思ったら、「11月11日」は、日本だけではなく、中国や韓国の人たちとも一緒に活動しているようなので、なるほど、語呂合わせでは問題になると言える。
ということで、今日も「箸の日」だということで、以前から、関連して紹介したいと思っていた記事を採り上げてみたい。
十六匙筯合否
西方の食法、唯だ右手を用ふるのみ、必ず病故有れば匙を畜ふることを開聴す。
其れ筯は則ち五天に聞かざる所、四部も亦た未だ見ざる、而も独り東夏共に斯の事有り。俗徒は自ずから是れ旧法なり、僧侶は情に随ひて用否す。
筯は既に聴さず遮せず、即ち是れ略教に当たる。用る時、衆に譏議無し、東夏即ち行ずべし。若し執すれば俗、嗤嫌有り。西土、元より捉る合らず。略教の旨、斯れ其の事なり。
義浄『南海寄帰伝』(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・2冊)巻2・21丁表
まず、「匙筯」というのは、食事に使う匙(スプーン)と、箸のことである。その合否(使用についての良し悪し)について論じたのが、上記の一章である。いや、日本では普通に匙や箸を使うので、何が問題なのか?と思う人もいるかもしれないが、上記を読み解いていくと理解出来るだろう。
そこで、義浄は西方・インドでの食事法は、ただ右手を使うのみであったという。一方で、その人が病気の場合には匙を持つことも許されたとしている。
また、箸については、インド各地でも使っていると聞いたことが無く、諸々の『律蔵』でも未だ見たことが無いとしている。つまり、これは東の中国で使っていただけだという。その際、世間では旧法の通り、古来より使われているが、僧侶は本人の想いによって、用いたり、用いなかったりしているという。
よって、箸の使用は僧侶個人に任されていることになるが、これについて義浄は、仏教で箸の利用は許されているわけでもないし、禁止されているわけでもなく、いわば「略教(略された教え)」であるという。用いていたとしても、大衆から譏られたり、議論されたりしないのであれば、中国であれば使うべきだという。或いは、この辺にとらわれて議論すれば、世俗では一般的に使うので、そこから笑われたり、批判されたりするだろうというのである。
インドでは元々使わないので、こういった議論にすらならないと結論しつつ、このような風土の違いによって、「略教」が起きたと、義浄は述べたのであった。今日は、いや、今日も「箸の日」だったらしいので、関連する記事を書いてみた次第である。
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