問うて曰わく、尸羅波羅蜜は則ち一切の戒法を総す。譬えば大海の衆流を総摂するが如し。いわゆる不飲酒、不過中食、不杖加衆生等、是の事、十善中に摂せず、何を以てか但だ十善を説くや。
答えて曰わく、仏、総相して六波羅蜜を説く。十善を総相戒と為し、別相に無量戒有り。不飲酒、不過中食は不貪中に入る。杖不加衆生等は、不瞋中に入る。余道は義相に随う。戒を身業、口業と名づけ、七善道、摂する所、十善道、及び初後に発心するが如し。殺さんと欲すれば、是の時、方便を作して、悪口、鞭打、繋縛、斫刺、乃至、垂死なり。皆、初に属す。死後、皮を剥ぎ、食噉、割截、歓喜す。皆、後と名づく。命を奪う、是れ本体なり。此の三事和合して、総じて殺不善道と名づく。是を以ての故に知る、十善道、則ち一切戒を摂すると説く。
『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」
さて、「尸羅波羅蜜」とは、持戒の完成である。よって、一切の戒法を総合することとなる。そこで、問題は総相戒についてである。ここでは、十善戒を「総相戒」としている。そこで、十善戒は、身口意の三業を如何にして善としていくかが問われているため、例えば、「不飲酒、不過中食、不杖加衆生等」は「十善戒」に収まらない。
そのため、それら個別の戒と十善戒との関係を問題にしている。
そこで、本疏に於ける答えだが、そもそも六波羅蜜自体が「総相」であるという。また、「十善戒」が総相であるともいう。そして、個別に無量の戒があるが、ここでは不飲酒などは三毒に於ける「不貪」に収まり、杖不加衆生は「不瞋」に収まる。他は他で、それぞれの戒に収まるという。
なお、改めて「十善戒」の内容を確認しておきたい。
・三身業(不殺生・不偸盗・不邪淫)
・四口業(不妄語・不綺語・不悪口・不両舌)
・三意業(不貪欲・不瞋恚・不邪見)
つまり、様々な罪のあり方は、この「十善戒」に含まれ、一々の罪の動機が、この身口意の三業に収まるからこそ、「総相戒」に位置付けられるというのが、本書の立場であった。
と、一応まとめてはみたものの、「総相戒」という言葉、仏典にはこれ以上全く見えないのであった。よって、話を広げようも無いという話でもあった。
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