気を張り詰めていた疲れのせいか、いつの間にか眠っていたようだ。列車の停止する振動でふと目が覚める。車内は真空のような静寂が漂っている。ここはどこなのだろう? 車掌の言う通り、夜明けまで車内アナウンスはないため、駅名もわからない。カーテンの隙間から外をのぞくと、ホームには煌々と灯りが付いていた。乗降客はいないようだ。今何時だ? 親から借りてきた腕時計を見ると1時を過ぎたところである。まだそんな時間か,,,。夜の長さを感じる。やがて予告もなく汽車が動き始めた。ゆっくりと通り過ぎるホームを眺めていると、「はちのへ」という駅名が読み取れた。再び列車は乾いた単調な振動を繰り返しながらひた走る。
ドアを開けると、何か異質な空間に迷い込んだかのようだった。それは照明を落としたというより薄暗く、冷え冷えとした空気が漂っていたせいかもしれない。とにかくカウンターの椅子に腰かけ、目の前のズラリとボトルの並んだ棚に目をやった。オーナーバーテンダーらしき、頭をつるつるに剃った男がおもむろに注文を聞く。「いらっしゃいませ。何に致しましょう」なぜか妙に改まった、ややもったいぶった調子に感じる。ほんの少しの間、考えてブラディメアリーを注文する。「かしこまりました」固い口調で答える。そのあとがやや専門的なやりとりとなる。「お客様、ウォッカの度数はどれくらいにしますか?」「唐辛子を使ったものと、普通のものとどちらにしますか?」など尋ねる。あまりカクテルに詳しくない私は「まあ、適当に」と言うと、「適当では困るんですけどね」と宣う。「それじゃあ、普通のでいいい」というと、やおらブラディメアリーについての講釈を始めた。ついてはどちらかと言えば女性の飲む酒だとか、なんと終いには「いい年してるんだから、それぐらい覚えておいた方がいいよ」とのご託宣があった。一気に場がシラケたが、あまりムキになるのもなおさら体裁が悪いと、ああそうかと笑ってごまかした。カウンターにはほかに二人の客がいた。若いころなら憤然と席を立つところであったが、今は感性が鈍ってきたせいか、それはど感情を動かすほどではない。まあそんなもんかといったところである。その後、10分余り気持ちの整理をして、どうやら姿勢を立て直し、なんとか自分のペースで他の客と言葉を交わし、そのマスターとも普通の会話をして2時間余り、談論風発の盛り上がった気分でその店を後にしたのだった。もともと、さほど頻繁に夜の街に繰り出す方だはないが、酒を交わしてのおしゃべりは好むところである。だが元来、バーにはあまり足を向けない。明確な理由があるわけではないが、思うにバーと言う所は、リラックスして気楽に飲めるところではないとしたイメージがあるせいかもしれない。偏見を承知で言うと、その店のマスターの仕向けた世界に客は否応なしに合わせる必要を感じる。そして客の品定めから、手前味噌の自慢話、少々自信過剰気味の長講釈、バーで飲む客の暗黙のマナー、ある種、夜の商売独特の仁義、などを当たり前のこととして客に対処する。客の方も又、必要以上に事あるごとに、マスター、マスターの連発で、彼らを持ち上げようとする。そんな雰囲気は所詮、私の性には合うはずはない。私見として、バーテンダーという職業は本来もっと高邁なものと推測する。直接、お客様の前でサービスをするには、豊富なな経験と、客を心豊かな気分にするためのたゆまない努力を必要とするはずだ。当然、中には技能、接客態度ともに優れた優秀なバーテンダーもいるであろう。そんなバーに一度、遭遇してみたいものだ。